巣穴あるいは出口に関する考察――わたしのなかのカフカへ(その2)


 もうすこしカフカをつづけよう。
 カフカに「巣穴」という作品がある。「歌姫ヨゼフィーネ」とともにカフカ最晩年の作品である。原題はDer Bau 。Bauには建築、建物、構造、巣穴、それに営倉という意味もある。邦訳では「巣穴」が一般的のようだが、新潮社の全集新版では「穴巣」、旧版では「家」と訳されている。穴巣はちょっと熟さないことばのように思えるけれども、本文中もすべて穴巣で統一されている。
 問題は「家」のほうで、これがなんと板倉鞆音の翻訳だった。うかつなことに今まで気づかなかったのだけれど、この旧版のカフカ全集をはじめて手にしたときは、板倉訳のリンゲルナッツもケストナーも知らなかったので、とくに訳者を意識しなかったのだろう。読み返してみると、詩の翻訳では簡潔を旨とする板倉が、この小説の翻訳ではときにまだるっこしい訳しぶりをみせている。それについてはあとで触れることにして、板倉はなぜ「家」と訳したのだろう。
 と、あらためて問うまでもない。これは地中に穴を掘って暮す「俺」(「わたし」)の独白体の小説で、語り手が人間なのかもぐらなのか、あるいは他の生き物なのかその正体はさだかでない。カフカには元猿とか元犬が語り手の小説もあるから、正体は元もぐらか元人間なのかも知れないが、いずれにせよ、語り手が自分の棲みかを「巣穴」とは呼ぶまい。巣穴は人間から見た動物の棲みかであって、語り手が人間であろうと動物であろうと、かれの意識としては「わが家」ということになるはずだ。おそらく板倉はそうかんがえて本文中でも「俺の家」と訳したのだろう。そしてそれはもっともなことだと思う。
 さて、先に「ときにまだるっこしい訳しぶり」と書いたけれども――そしてそれは新版の全集でも一層そうなのだけれども――、この小説が池内紀の手にかかれば、適宜分節も施されて、じつにすっきりと読みやすくなる。試みに対比してみよう。小説の最初のほうの部分から。


 「家の中央からほど遠からぬところに本丸がある。極度の危険、といつても何も直接迫撃を受けるとは限らないが然し包囲攻撃にあつた場合をとくと考慮したものである。他のすべてが恐らく肉体よりもむしろ悟性の最も骨の折れた仕事であるに反して、この要塞の平場は肉体のあらゆる部分にわたる最も困難な仕事のたまものである。二三度おれは肉体の疲労のため絶望にかられて一切を放擲しようとし、仰向けに転がつて普請を詛い、重い足を曳きずつて外に這い出し、家はそのままほつたらかしにしておいた。そんなことが出来たのも、二度とこの家にかえるつもりがなかつたればこそだ。」(板倉鞆音訳「家」、旧版全集三巻)


 「巣穴のちょうどまん中というのではないが、いざというときのため、それも追われるといった危険ではなく、居すわられる場合のことを考えて、中央広場をこしらえた。ほかのところは肉体よりも知恵をふり絞ってつくったものだが、巣穴全体の砦にもあたるこの広場は、まさしく額に汗してつくりあげたしろものだ。疲労困憊のあげく、何度か途中で放棄しかかった。仰向けに寝ころがって、われとわが巣穴を呪ったものだ。這うようにして地上にころげ出て、巣穴の口をひらいたまま打ちすてておいたこともある。二度ともどりたくなかったから、かまうこともなかった。」(池内紀訳「巣穴」、『カフカ寓話集』岩波文庫


 「知恵をふり絞って」とか「額に汗して」とか、うまいものだなと思う。原文に忠実であるかどうかはさておき、池内訳は全体に「よくこなれた日本語」といっていいだろう。余談になるけれども、チャンドラーの村上春樹訳『ロング・グッドバイ』と清水俊二訳『長いお別れ』の違いを思わせなくもない。村上春樹清水俊二訳を評していったように、池内訳は「細かいことにそれほど拘泥しない、大人(たいじん)の風格のある翻訳である」。
 掲出した部分で解釈のやや異なっているのは、板倉が「直接迫撃を受けるとは限らないが然し包囲攻撃にあつた場合」と訳している箇所。新版全集の「穴巣」でもここは「この位置は、かならずしも直接攻撃でなくても、包囲攻撃を受けて極度の危険におちいった場合のことを考えて、慎重に選んだのである」(前田敬作訳)と、板倉訳と同様の意味にとっている。
 「直接迫撃」あるいは「追われるといった危険」と訳されているのは、原文ではgeradezu einer Verfolgung。このVerfolgungは、追跡、追求、迫害といった意味の単語で、軍事用語では迫撃という意味がある。「包囲攻撃」あるいは「居すわられる場合」と訳されているのは、Belagerungで、これは包囲攻撃を意味する。構文的には、直接迫撃/包囲攻撃と解する方が妥当のように思われるが、ただ、Verfolgungには法律用語として「訴追」の意味があるので、このいかにもカフカエスクな主人公が訴追を逃れて穴に住み着いたといった意味合いをこの単語に幾分か含ませているのかもしれない。ちなみに「悟性の最も骨の折れた」の「骨の折れる」にも「訴訟を起こすanstrengen」がかすかに韻いているように思われる。前回書いたように「単語の起源に遡る」ことによって思いがけない発見をすることもある。見当違いかもしれないが、誤解もまた「解」のひとつではある。


 ところで先に述べた板倉の訳しぶりについてであるけれども、これは原文の構文によるものだろう。三原弟平は『カフカ・エッセイ――カフカをめぐる七つの試み』(平凡社)でこの「巣穴」を取り上げてこう書いている。


 「野鼠を食糧とし、地中に穴を掘る、もぐらとも人間ともつかない「わたし」の独白というかたちをとるこの物語は、外から見れば、随分とグロテスクで滑稽な行為や考えにみちみちているが、それを語る、接続法がうねるように錯綜してゆく文体は、「わたし」のデスペレートな不安を、そっくりそのまま読む者に伝えてあまりあるのである。」


 「デスペレートな不安」というには、池内紀のすっきりとリズミカルな訳文は聊か晴朗にすぎるような気がしないでもない。それはともかく、この『カフカ・エッセイ』のひとつの章「穴と傷」は、カフカが二十一歳のときに目撃した光景をマックス・ブロートに書き送った手紙の引用から始まる。
 カフカがあるとき犬を散歩させていると、犬がもぐらを見つけて飛びかかる。もぐらは不意の攻撃から必死に逃げようとして、固い地面に穴を穿とうとするがうまく行かない。ついにもぐらは犬の前足で殴られて「キーキーッ」と悲鳴を上げる――。
 このエピソードを発端に「追いつめられたものの不安」の形象化としての「穴」のイメージをカフカの諸作品に探ってゆく三原の刺戟的なエッセイを仔細にたどる余裕はないが、「巣穴」にかぎっていえば、主人公が耳にする物音――かれを不安のどん底へと突き落とす見えない敵の立てるかすかな物音を、やがてカフカを死にみちびく「肺にうがたれた空洞」のラッセル音に、そして地中に穿たれた穴を「カフカ自身が生涯かけて掘り抜いた、己れの文学作品」に重ね合せてみるあたりは、きわめて誘惑的な解読ではあるけれども、テクストを作者に還元し人生という物語へと回収するそうしたレクチュールは、いわば出口のない陥穽というべきだろう。むしろこの小説の一節、


 「奴らに逢つては、あの出口だつて俺を救つてはくれない。そもそもあの出口は俺を救うものではなくて破滅させるものの如くである。けれども出口は一個の希望であり、出口なくしては俺は生きてゆけないのだ。」


を、出口を考察したもうひとつの寓話と重ね合わせてみるほうが幾らか生産的な作業になるかもしれない。
 「アカデミーで報告する」において、人間に捕えられた猿は一所懸命勉強して人間になる。つまり「特別の出口、人間という出口」を発見するのである。


 「ドイツ語には、「茂みに入る」というすばらしい表現があります。「姿をくらます」という意味です。ぼくは茂みに入った。姿をくらました。それ以外に道はなかった。もちろん、自由は選択肢にない、ということを前提にしての話ですが。」(丘沢静也訳、光文社文庫


 自由の虚妄なること絶望に等しい。いや、絶望の虚妄なること希望に等しい、か。
 いずれにせよ、姿をくらますこと。ドゥルーズ=ガタリのいうように「服従に対立する自由が問題なのではなく、単に逃走の線、あるいはむしろ《右でも左でも、どこでもよい》単なる出口、可能な限り最も意味のない出口が問題なのである」(『カフカ マイナー文学のために』、宇波彰・岩田行一訳、法政大学出版局)。
 グレーゴルの虫への変身もまたひとつの逃走の線にほかならない。人間から虫へ、猿から人間へ、といった生成変化の物語を、自己を他者へとひらいてゆく新たな知覚の物語として読み直してみること。カフカがわれわれにとっていまなお重要でありつづけているのは、かれが文学の可能性の中心につねに/すでに佇んでいるからにほかならない。