看板とお絞り、あるいは、霜の針



 カフカについてはまだ書き足らないが(いくら書いても書き足らないだろうが)、気分を変えて今朝の新聞を読んでちょっと気になったことを書いておきたい。
 朝日新聞書評欄のトップに、ジャック・デリダの『マルクスの亡霊たち』の書評が掲げられている。評者は巽孝之。400字でおよそ6枚。他の書評がおよそ2枚だから、これは書評面がとくに力をこめて取り上げた本ということになる。
 ちなみに、かつて私の勤めていた書評紙では、通常の書評が400字で3・5枚、短い書評が2・5枚(匿名書評が多かった)、少し長めで4〜5枚、力を入れた長い書評が8〜10枚だった。以前ちょっとふれた由良君美のコオルリッジ『文学評伝』評も、たしか10枚で依頼したのだったと思う。
 最近、坪内祐三が『四百字十一枚』(みすず書房)というタイトルの書評集を出したが、3〜4枚と10枚前後とでは書評の書き方がまるでちがう。そのあたりの力の入れ方、筋肉の使い方のちがいは、プロの書評者なら身についているものである。村上春樹が『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)で、短距離走長距離走とのちがいを短篇小説と長篇小説とのちがいに比較して語っているが、書評の長短もそれに似たところがあるように思う。
 そういう意味では、朝日新聞の2枚強(正確にいえば13字×65行)は、やや短い。私がたまに書く「マリ・クレール」の書評が14字×69行で、だいたい72〜73行(千字見当)書いて数行削って収めるのだけれど、13字×65行になると力の入れ具合が少しちがってくる。陸上に譬えると100メートル走と80メートル走のちがいだろうか。まあ、感覚的なものですけど。


 さて、その朝日の『マルクスの亡霊たち』の書評だが、「ゴシック・ロマンスに似た感動」という見出しが掲げられていた。おそらく巽孝之の附けたタイトルではなく、朝日の整理部が附けたのだろう。
 書評は、デリダが言及する『共産党宣言』冒頭の有名な一文「コミュニズムという幽霊が徘徊する」とハムレットの独白「時代の蝶番が外れてしまった」とを並べて、この講演が行われた1993年4月という日附けに注意をうながす。すなわち、米ソ冷戦が終結してマルクス主義に「死刑宣告(判決)」(カフカ)が下され、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を唱えたまさにその時に開かれた「マルクス主義はどこへ行く」と題された国際コロキウムで行なわれたデリダの講演は、蝶番が外れてしまった時代に共産主義革命という幽霊を召喚しようとする脱構築的試みであったわけだが、巽孝之はそのコンテクストの紹介に紙幅の大半を費やし、『資本論』第一巻の冒頭に「亡霊の理論を適用することで最大の批評的クライマックスを迎える本書は、あたかも上質のゴシック・ロマンスにも似た感動を与えるだろう」と、この書評を閉じている(いずれhttp://book.asahi.com/review/で読むことができるだろう)。
 「ゴシック・ロマンスにも似た感動」という評言はいかにも唐突で(ゴースト・ストーリーに引っかけたシャレだろう)、文脈から切り離されて見出しに掲げられると、まるでこれが『オトラント城奇譚』のような読後感を与える本かと思う読者も多いだろう。いずれにせよこの書評は、本書の置かれた文脈を措定したところで結語を接ぎ木して終わる、20枚程度の書評のイントロというべきもので、力の配分をまちがえたように思われる。
 一方、松浦理英子の『犬身』を書評した斎藤美奈子の文は13字×65行ヴァージョンで、「大の犬好きが犬になってみたら…」となんだか最近はやりの翻訳ものファンタジーのような見出しが附けられている。だが当の書評もまたその見出しに見合った斎藤美奈子らしからぬ気の抜けた文章で、中ほどの「性愛を超えたそんな犬と人との接触に対置されるのは、ときに支配/被支配に転じ、暴力にさえ転化する(鬼畜みたいな?)人の男女の性的な営みだ」という指摘を除けば、たんなる紹介文以上のものではない。こちらは200字程度の紹介文を水増しして延ばしたような感じで、800字のうち前半400字は不要だろう。『親指Pの修業時代』から14年、「もー長かったよ。だけど待っててよかったよ」と言いながら、「多彩な意匠を織り込んだビタースイートな変身譚である」と纏められたら松浦理英子も脱力するしかあるまい。金井美恵子ならただじゃ済まないな。
 感心したのは、<中高生のためのブックサーフィン>という紙面の「お笑いの本棚」という愛読書紹介コラムで、桐野夏生の『柔らかな頬』を取り上げた光浦靖子の文章。「読後、黒いネバッとしたものがまとわり付くような、いやぁ?な余韻に長いこと浸ってられる作品です」と書き、主人公が朝、開店前の飲み屋の看板に脚をぶつけ、店先にあるお絞りの入ったバスケットを見て鳥肌を立てて「嫌だ」と思う場面を適切に引用したのち、こう結語する。


 「看板にお絞り、絶妙なモノ選びでしょう? この二つを並べて、ポジティブでいられますか? 「あんた我儘じゃないの?」と言う前に、「こんな人生、嫌だ」とつい同意してしまいました。後は、あり地獄ですよ。ズルズルですよ。犯人は誰だ、娘はどうなった、そんなこと、どうでもよくなる、怖ろしいズルズル感です。」


こちらは16字×39行(624字)。短い分量ながら、桐野の小説の真っ芯を「ジャストミート」(大江健三郎)している。39行のうち11行を引用に費やしているけれども、引用箇所の適切さによって文章が引き締まっている。「神は細部に宿る」ことを熟知したすぐれた書評である。


 若島正は近著『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(作品社)の序文で、ナボコフの文学講義についてふれている。ナボコフトルストイの『アンナ・カレーニナ』の雪景色の描写にふれて、雪の重みで巻き毛のような枝をたらした白樺の老樹は、やがて(三頁ほど後で)キチイのマフの毛皮の上に祝福するような霜の針を落とすだろう、と指摘する。トルストイの繊細な描写とそれを感受するナボコフの読者としての感性のこまやかさ、若島はふたりの「こうした交感に、嫉妬心まじりでうっとりとみとれてしまう」と書く。若島はさらにヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の一場面――ラムジー夫人が夫の上着にパン屑がついていないかと気遣う場面にふれて、「なぜパン屑を拾い上げる行為が、言葉では言い表せない愛のふるまいなのか、それを理解できる人間が良い読者なのだ」と語った批評家アーヴィング・ハウの言葉を紹介する。「本そのものよりも、こうした瞬間、こうした余分な細部にこそ、わたしたちは記憶の指標として何度も立ち返ることになる」のだと。
 若島は、『ロリータ』の表面に付着する「霜の針」や「パン屑」をそっと拾い上げたいという。それが『ロリータ』という小説に対する「最大の愛情の証」であると。上下二巻の長い小説から看板とお絞りをそっと拾い上げた光浦靖子は、ナボコフやハウに匹敵する批評的感性の持ち主である。脱帽した。