板倉鞆音の翻訳観――翻訳詩の問題再説


 板倉鞆音の輪郭が徐々に明らかになってきた。このブログでも板倉鞆音の訳詩の素晴しさについて数度にわたって書いてきたが、それに呼応して板倉の詩や訳詩などを高遠弘美氏がブログ*1で精力的に紹介に努めてこられた。そして高遠氏の若い友人たちの尽力によって板倉のドイツ詩の翻訳以外の多彩な活動が発掘され、このほど、ゆきうり氏によって板倉鞆音リンク集「聴滴舎」*2というサイトが公開された。板倉にかかわる記述のあるサイトの紹介のほか、著訳書一覧、詩誌・大学新聞等々への寄稿データなど書誌も充実している。今後さらなる更新が期待される。


   1

 その書誌にも記載されている、板倉の「飜譯に就て 詩意識の過剰といふこと」という文章(愛知大学『文學論集』第一輯所収、一九四九年)が高遠氏のブログに分載されている*3。「飜譯に就て」は、吉川幸次郎・大山定一共著『洛中書問』の読後感を大山宛に認めた書簡という形式で板倉が自らの翻訳観を披瀝した興味深いエッセイである。ここでは、『洛中書問』をきっかけに「翻訳詩について」の題で書き継いできた問題を板倉がどう捉えているかについて若干の考察を試みてみたい(板倉の文章の精しくは当該エッセイに直截あたられたい)。


 板倉は、訳詩が詩でなければならぬとする大山定一の立場に「全く同感」であり、大山が自らの翻訳観を具現したと自負する訳詩集『ドイツ詩抄』を、「(上田)敏以後まれに見る立派な譯詩集」で「飜譯口調のぎこちなさがなく、譯詩が立派に日本語の詩になつてゐる」と評価しながらも、一方で「僕の感想、もう少しはつきり言へば、疑問は、原詩が譯詩となるまでの操作、原詩から譯詩への轉移にさいして生ずるひずみ(三字傍点)にあるのです」と疑義を提示する。
 板倉のいう「ひずみ」とはなにかがここでの問題である。
 板倉はシュトルムの短詩Juliとそれを訳した上田敏の「水無月」とを例示する。以下に、板倉の引用する上田敏訳「水無月」を掲げる。


   水無月

 子守歌風に浮びて
 暖かに日は照りわたり、
 田の麦は足穂うなだれ、
 茨には紅き果(み)熟し、
 小河には木の葉みちたり。
 いかに思ふ、わかきをみなよ。


 板倉は、「小河には木の葉みちたり」にふと疑問を覚えたという。七月は盛夏なのに(水無月は旧暦六月の異称。現在の七月)、「小河に木の葉が満ちてゐるといふのは、嵐の後ででもない限り、これはどうしても晩秋の景としか思はれません」。シュトルムの原詩の件の一行schwer von Segen ist die Flur—は「「野は浄福にみてり」といふほどの意味でせう。それを敏はなぜ「小河には木の葉みちたり」などと譯したのでせうか」と問う。
 ここで板倉は日本人と西欧人との感覚の相違に言及したあるドイツ人の説――「日本人は印象主義的な民族」であり「日本人の精神活動はおしなべて感覺を通じて行はれる、ゲーテの所謂「眼の人間」である。だから日本人は抽象的な事柄を形容するのにさへ、大ていは具象的な言葉をもつてする。欧羅巴人はこれに反してはるかに表現主義的であつて、具體的なものをさへ抽象的な言葉で形容する」――を援用して、件の一行にもそういう事情が絡んでいるという。そして「七月の美しい自然が祝福を重くはらんでゐるといふことは獨逸人には何の説明の要もなく、そのまますなほに受け入れられる感動」であろうが、それを日本語の詩として表現することのいかに困難であるかに説き及ぶ。だがそれにしても、「扇の要にも比すべき實に千鈞の重みを加へた」一行が「「小河には木の葉みちたり」では譯詩全体がはなはだ平板なものになつてしま」うと述べる*4
 たしかに板倉のいうように「子守歌風に浮びて」から「茨には紅き果(み)熟し」まで情景を描写して、次に来るべき決めの一行がまた同様の情景描写であっては肝心要の要諦を外した平板な詩になってしまうと言わねばなるまい。だが、浄福に充ちた自然という感覚には当然宗教的感情が背景にあるだろう。上田敏は、その感覚を共有しない多くの日本人読者のためには言い換えが必要だと思ったのかもしれない。また、美を美であるとあからさまに断言せず、「具象的な言葉」を連ねることによって仄めかし、読者にそれと読み取らせる洗練された和歌の伝統も頭にあったのかもしれない。「浄福にみてり」といった断言を避け、「小河には木の葉みちたり」といった情景をさらに畳掛けるところに風流を見ていたのかもしれない*5
 板倉はこの詩の最終行「わかきをみな」は「子守歌の主」である「わが若き妻」を指す、すなわち「若き妻よ、何をか思へる」ではないかと指摘し、「この敏の譯詩はむしろ翻案とも言ふべきもの、それもあまり上々の出来ばえではないといふことになる」と述べる。


   2

 『洛中書問』の読後感として起筆した板倉が、まず上田敏の訳詩を俎上に載せ詳細に検討したのも、そしてそれをここで精しく走査したのも、ここに翻訳詩における問題の殆どすべてが顕れているからにほかならない。大山定一の訳詩における問題は殆どすべて上田敏の訳詩にその淵源が認められるといっていい。
 板倉は大山の訳詩、マイヤー「鎮魂歌」とアイヒェンドルフ「老年」を例に挙げ、前者では日本人に耳慣れない「キルヒベルクの鐘」を「「僕のたそがれの鐘」と訳し*6、後者では「永遠の曙光」を「西方浄土の莊厳のあかね」と訳したのは、上田敏の「小河には木の葉みちたり」と同様の動機によるものではないか、と指摘したうえで、だがそうした配慮は、大山の引用する高村光太郎の「詩の飜譯は結局一種の親切に過ぎない」に倣っていえば、「ひよつとしたら親切の行きすぎではあるまいか」と述べる。
 そしてさらに、ゲーテ「旅びとの夜の歌」とヘルダーリン「無題」の二篇の大山の訳詩を引例し、前者の「夕鳥のこゑ木立にきえぬ」(原詩は「小鳥」)には、斎藤茂吉の(『赤光』、「おひろ」連作の一)「啼くこゑは悲しけれども夕鳥は木に眠るなりわれは寝なくに」やら、石井直三郎の「山いくへ夕山いくへ鳴かぬとりさびしき鳥の落ちて入る山」やらを思い浮かべずにいない。また後者の「朔風のなかに/よごれた旗をはためかすばかり」(原詩はただの「風」。朔風は北風の意)には、杜甫の「紅葉驚山樹 呼兒問朔風」が眼前にちらつくという。
 こうして板倉の論旨をたどってくると、板倉の大山にたいする異論の要点は次の二つに要約できる。一に、訳者が日本の読者向けに原詩の本来の意味を変えてまで分かりやすくするのは如何なものか。一に、訳者が日本の読者向けに原詩の西欧の文脈を日本の伝統的文脈に置き換えるのは如何なものか。
 前者にかんして、板倉はいう。ただひたすらに「原詩」のみを思い念ぜよ、と。弓矢で的を射るとき、弓も矢も自分の手も忘れて、ただ的のみを一心に見つめるように。そして矢が的の真っ芯を射抜く瞬間こそが翻訳の「醍醐味」ではあるまいか、と。「このとき、作家に對する愛情も、日本の讀者に對する愛情も、國語に對する尊敬も、詩であらうとする念願も、すべては無心のうちに溶け消えてゐるのではないでせうか」と。
 後者にかんして、板倉はいう。あなた(大山)はゲーテの詩にふれて、日常誰もが使うごくありふれた言葉、世間の蕪雑な言葉が「ただ一つの目的」 のために組み合されて使われたとき突然うつくしい毫光をはなつと書いていられるではないか。「詩的陰翳をもたない、まつさらな言葉で書かれた詩を一たび日本語に譯すとなると、なぜこのやうな古い傳統のにほひを帯びた言葉となるのでせうか」と。「ゲーテの詩の成り立つ奇蹟の秘密がこのやうな所にひそむとすれば、この奇蹟の日本語における再現を信ずることなくして、どうして飜譯の可能を信ずることが出來るでせうか。この奇蹟の再現を徹頭徹尾追求すること、飜譯者の任務はこれ以外にないと僕は考へてゐる」と。
 板倉のいう弓矢の比喩は板倉の発明ではなく、大山自身の言葉である。『洛中書問』に大山は書いている。「自堕落に、無雑作につかわれるありふれた言葉が、引きしぼった矢のように、まっすぐに一つのものをねらうとき、かかる荘厳の言葉の奇蹟があらわれると、僕は言いたいのです」と。
 先述したように、板倉は「原詩が譯詩となるまでの操作、原詩から譯詩への轉移にさいして生ずるひずみ」に問題があると書いたが、その「ひずみ」もまた大山自身の言葉にほかならない。『洛中書問』に大山は書いている。「どんな忠実な翻訳でも原作を些かのひずみもなく鏡にうつしとるようなものでなく、原作を読み取る一個人の心のはたらき、原作をうつしとるめいめいの眼のはたらき、即ち解釈、理解、追体験、別な国語による表現、というような困難な個別的操作を経なければならぬ以上、翻訳は「再生」であると定義するのが最も確実のようであります」と。
 板倉はあくまで大山自身の言葉・論理に添いながら問いかける。ゲーテの弓矢のようになぜ翻訳もできないのでしょうか。ひずみを生じるのは避けられないにせよなぜ敢えて違うひずみ(「古い傳統のにほひ」)を導入するのでしょうか、と。板倉はいう。


 「詩の飜譯は何よりもまづ詩でなければならぬとのお説に僕は何らの異論もあらう筈はありません。ただあなたのやうなすぐれた西洋詩の研究家の手になる飜譯がともすれば古い傳統的な東洋の匂をただよはせてゐる點、一寸妙な矛盾を感じるのです。それは若しかしたら、詩であらう詩であらうとする詩意識の過剰から來るのではないでせうか。」


   3

 板倉は「文語のもつ陰翳のかげに身をおけば、とにもかくにも一應詩的な何ものかを作り上げることは比較的容易だから」「僕は譯詩に文語は用ゐまいと心に決めてゐました。残念ながらこの決心はヘルダアリーンに突き當つて破れてしまひはしたのですが」と書く。板倉のいう「文語」は、漢語や和歌に用いられる伝統的な雅語をも指すと思われる。ここで折口信夫上田敏批判*7を思い出しておくのも無駄ではあるまい。
 よく知られているように明治十五年刊行の『新体詩抄』を近代詩の始まりとするのが文学史の通説である。西欧の詩を初めて日本に移入するにあたって、三人の哲学者・科学者、井上哲次郎、谷田部良吉、外山正一が七五調の音律、伝統的な雅語、さらには浄瑠璃・歌舞伎まで動員しなければならなかったのは、詩といえば漢詩、和歌、俳句しか存在しなかった土壌においては当然であったといえるだろう。詳述する余裕はないが、山田美妙の『新体詞選』(明治十九年)、森鴎外の『於母影』(明治二十五年)、大和田建樹の『欧米名家詩集』(明治二十七年)等々を経て、上田敏の『海潮音』(明治三十八年)において翻訳詩はその頂点に達する。上田敏の雅語を駆使した文語体による訳詩はその後の翻訳詩に大きな影響を与え、口語訳が主となった後々までも一種の創作詩、雅語の使用といった点で影響を及ぼし続けたことは大山定一や森亮らの訳詩に見られるとおりである。
 板倉はこの「飜譯に就て」の末尾ちかくで「日本の詩壇に俳句第二藝術論が取り上げられ、短歌性の打破が叫ばれたのもさう遠い過去のことではありません」と書いている。桑原武夫の「第二藝術――現代俳句について」(一九四六年)が発表された三年後のことである。板倉は桑原の「第二藝術」が詩壇に及ぼした影響をこう記述する。「それは要するに傳統的な世界のかげやにほひを現代詩のなかから締め出し、さういふ精神の據りどころを拒否して、新しい言葉で新しい詩を書かうといふ意圖のあらはれであると思ひます。それは色々な點で西洋詩の精藭につながる性質のものでせう」と。桑原の現代俳句批判を板倉は自分の関心事に引きつけて表現の刷新の問題として捉え返したのだろう。
 それより遥か以前、十代の板倉が旧制八高の短歌会に所属していたことが、高遠氏の若い友人の調査によって明らかとなった。歌誌「桑の葉」に発表された板倉の短歌を高遠氏のブログで見ることができる*8。そのなかから一首(一九二六年)。


 春の雨今日まだ止まずさにはべの楓若芽は葉にひらきたり


 板倉はおそらく一九二八年に復刊された前田夕暮の「詩歌」に所属したのだろう、口語自由律の短歌を「詩歌新人叢書」第六編『樹木と感情』に発表する(一九三一年)*9


 眞實はどこに、風の中に、太陽のなかに、私には何の興味もないもののなかに


 前田夕暮門下で新短歌に志した板倉の閲歴は、表現における革新という意味で後年の「僕は譯詩に文語は用ゐまいと心に決めてゐました」の言葉とはるかに通底するといえるだろう。やがて板倉は歌と別れ(?)、自由詩にその表現の舞台を移すことになるのだが、それはまた別の話。

 本稿は高遠氏のブログに掲載されている資料に全面的に依拠した。高遠氏と調査に尽力された方々にあらためて謝意を申し述べたい。


 なお、桑原武夫が『洛中書問』の書評「反訳について」を発表している*10。桑原自身のいうように「感想」以上のものではないが、大山の「国語を信じなければ、詩も文学も生まれる母胎をまったく喪失しなければなりません」との言葉にたいして桑原が「万一国語を信じるということが、国語の可能性を信じることでなくて、国語の伝統に執着することになると、外国の文学が日本化されすぎる危険が生じるおそれがある」と指摘していることを附記しておこう。

*1:高遠弘美の休み時間>http://romitak.exblog.jp/

*2:<聴滴舎>http://www.h7.dion.ne.jp/~nidulus/itakura.html

*3:六月十三日より十八日にかけて断続的に八回。少なからぬ量の原稿を手ずから入力なされた高遠弘美氏の労を多としたい。

*4:上田敏海潮音』所収の「水無月」では、この一行は「野面(のもせ)には木の葉みちたり」となっている。板倉が引用した底本は不明だが、「野面」にしても文意に変更の要はあるまい。

*5:上田敏海潮音』における高名な訳詩、ブラウニングの「春の朝」は、シュトルムの「水無月」とその詩想において共通するところがあるように思われる。だが周知のように「春の朝」では「水無月」と違って、「神、そらに知ろしめす。/すべて世は事も無し。」と簡潔に断言されている。

*6:当ブログ、「キルヒベルクの鐘――翻訳詩の問題(5)」を参照。

*7:当ブログ、「すべて世は事も無し――翻訳詩の問題(1)」を参照。

*8:高遠氏のブログ、六月二十日「歌人 板倉鞆音」の項。

*9:同上、六月二十日「歌人としての板倉鞆音 その二」の項より。

*10:桑原武夫「反訳について」、「世界文学」一九四七年十月、『桑原武夫集 2』岩波書店、一九八〇年、所収。