詩は何処にあるか――翻訳詩の問題(3)

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 福永武彦の『異邦の薫り』は、森鴎外の『於母影』を皮切りに、明治〜昭和期の代表的な訳詩集を採り上げて紹介したエッセイ集で、「婦人之友」に一年間連載された十二篇にもう一篇を加えて一本としたもの(麺麭屋の一ダースですね)。篠田一士のいう五大訳詩集はむろんのこと、日夏耿之介の『海表集』や『山内義雄訳詩集』など、目も綾な書目が並ぶ。「正確無比で誤訳が一つもないといふやうなことばかりで、面白さがきまるわけではない」と書くように、福永にとって翻訳詩が「詩」として自立していなければならないのは自明である。
 福永の言及する訳詩集は「いずれも言わばわが国の翻訳文学の銀座通りに、その軒をつらねている大廈高屋の群であるが、そのほかに裏通りのささやかで、瀟洒な店舗のような訳詩や訳詩集が、たくさんにとまでは言えないまでも、あちこちにかなり見出されることは否定できない」と、専ら福永が採り上げた以外の秀れた訳詩集について紹介したエッセイをものしたのは富士川英郎で、こちらは「海」に一年間連載され、二篇を加えて『黒い風琴』の題で一本となった*1。なかの一篇「大山定一訳『ドイツ詩抄』」で、富士川は『洛中書問』に言及する。


 「(大山と吉川との)ふたつの立場は、『洛中書問』において、結局すれ違いに終ってしまっているが、概して言うならば、吉川の堂々の論陣を張った明快な論理の前に、大山の「今日の眼から見ればいささか気恥ずかしい文學青年的な熱弁」(川村二郎氏の言葉)は、影がうすく、ややもすればそれに圧倒されているように見える。しかも、それでいて、大山の翻訳論にも必ずしも無視できないところがあるのは、それがまさしく翻訳の、その存在を否定することのできない一つの立場(五字傍点)を表明しており、また、それを裏打ちするものとして、大山自身の訳詩を集めた『ドイツ詩抄』一巻があるからにほかならない。」


 そして「大山の翻訳論は忘れ去られるとしても、その『ドイツ詩抄』は(略)卓れた訳詩集として後にのこることだろう」と述べる。富士川のいう、大山の翻訳論における「その存在を否定することのできない一つの立場」とは、いうまでもなく「詩の翻訳はどこまでも「詩」でなければならぬ」をさすのだが、この一見自明であると思われる「立場」に吉川幸次郎が激しく反発したのは、前回見たようにまさにその「詩」とは何かを巡ってであった。はたして詩は何処にあるのか。
 

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 富士川は、『洛中書問』における「僕の翻訳についての考えを、最も正確に、一分一厘のちがいもなく、ありのままに示すのが『ドイツ詩抄』です」との大山の言葉を引いて、大山の立場を裏打ちするものとして『ドイツ詩抄』があると述べるのだが、手放しの讃辞に終始するわけではない。具体例を挙げて、「大山訳の一行ははたして原詩の心をよくつかんだうえでの、それに対応する一行と言うことができるだろうか」と疑問を投げかける。例とは、リルケの『形象集』の「秋」という詩である。大山訳は以下のとおり。


 木の葉が散る 彼等はどこかとほい知らぬ所から落ちてくるみたいだ
 天上の庭があつて そこから落葉は舞ひおちてくるのかも知れぬ
 落葉の表情にはそんな不憫な切なさがまつはりついてゐる


 地球も真夜なかには星々の世界から
 ひとり孤独の空間へ落ちるのではあるまいか


 われわれは落ちる いまそこにある手が落ちる
 あたりのものをじつと見てゐると さういふ気がしてならぬ


 しかし このやうに何も彼も落ちるのを
 そつとどこかで大切に受けとめてゐる大きな手があるにちがひない


 この大山訳に富士川は茅野蕭々の訳を対置してみせる。福永武彦も『異邦の薫り』で採り上げた有名な『リルケ詩抄』*2の一篇である。


 葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる。
 大空の遠い園が枯れるやうに、
 物を否定する身振で落ちる。


 さうして重い地は夜々に
 あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。


 我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
 他を御覧。総べてに落下がある。


 しかし一人ゐる、この落下を
 限なくやさしく両手で支へる者が。


 富士川によれば「茅野訳はほとんど完全な直訳である」。そして富士川の指摘する「大山訳の一行」とは第一スタンザの「落葉の表情にはそんな不憫な切なさがまつはりついてゐる」をさす。福永が「落葉がいやいやをするやうに首を振って落ちる」と見事に解説した原詩の「mit verneinender Gebärde/否定する身振で」という言葉は大山訳には見えない。代わりに「「不憫な切なさ」というような、訳者の情緒的着色による、原詩にない形容語がそこに多く見い出される」と富士川はいう。参考のために原詩を掲げておこう。


  Herbst
 Die Blätter fallen, fallen wie von weit,
 als welkten in den Himmeln ferne Gärten;
 sie fallen mit verneinender Gebärde.

 Und in den Nächten fällt die schwere Erde
 aus allen Sternen in die Einsamkeit.

 Wir alle fallen. Diese Hand da fällt.
 Und sieh dir andre an: es ist in allen.

 Und doch ist Einer, welcher dieses Fallen
 unendlich sanft in seinen Händen hält.


 私には原詩を味わう語学力がないが、茅野訳が原詩の簡潔さ、反復されるfallenの効果をよく写し取っていることは理解できる。そしてまた、原詩を離れて一篇の詩として大山詩と茅野詩を較べたときにも、「詩」がいずれにあるかは自明であるように思われる。ここにおいて、吉川幸次郎の<「詩」とは何でありますか。「詩」は実に一一の言葉の中にある>との言葉が万金の重みをもって想起されるのである。
 むろん大山の『ドイツ詩抄』がすべて「情緒過剰」に湿っているわけではない。リルケの他の作品を含む多くの秀れた翻訳詩のあるがゆえに富士川は『ドイツ詩抄』を称揚するのである。だが、あえてこうした対比を行ない、大山の「詩の翻訳はどこまでも「詩」でなければならぬ」との一見自明に見える立論の危うさを鮮やかに浮び上がらせてみせたところに富士川の周到さを読み取らねばならないだろう。


異邦の薫り

異邦の薫り

*1:富士川英郎『黒い風琴』小澤書店、一九八四年刊。

*2:昭和二年、第一書房から豪華版として刊行された。『異邦の薫り』口絵に見事な装本の書影が掲載されている。