新訳『賜物』あるいは『記憶よ、語れ』――ナボコフ再訪(5)



 ナボコフの作品は短篇、長篇にかかわらずいずれも大好きだけれども、もっとも鍾愛する作品はといえば、まず『記憶よ、語れ』に指を屈する。はじめてナボコフの作品にふれたのが十代の終わり、英語の授業で読んだFirst Loveだった。大津栄一郎注釈のFIRST LOVE AND OTHER STORIESの冒頭に収められている短篇で、そこに登場するフランス人の女の子の名前Colletteを題名に「ニューヨーカー」に発表され、のちにSpeak Memoryの第七章に組み込まれた(Nabokov's DozenにはFirst Loveのタイトルで収録されている)。First Loveを読んだのは、大津栄一郎の翻訳『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』が刊行されるずっと前で、覚束ない語学力で辞書を引き引き一行ずつ辿っていったことを今でもよくおぼえている。鉛筆で訳語の書き込みのある南雲堂のテキストは幾たびかの引越しにもまぎれず、まだ手許に残っている。
 英語の担任は富士川義之先生で、ちょうど『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』の翻訳を刊行される前後の頃だった。その頃「ユリイカ」でナボコフの特集があって、座談会に出席した丸谷才一が『ロリータ』の邦訳のまずさを指摘したついでに、富士川義之が改訳してくれるといいのにと語っているのを読んで嬉しく思ったりした。
 そうした記憶を別にしてもSpeak Memoryは断然すばらしい作品で、晶文社から出た訳書の帯でジョージ・スタイナーが「ナボコフの著作中、もっとも人間的かつ謙譲な書物である」と書いているように、”言葉の魔術師”と称されるナボコフの技巧的な面(は当然この作品にも発揮されている)以上に、失われた日々を追憶する郷愁の思いが無防備なまでにうかがわれて時に読むものの胸をしめつけもする。この幼年期そしてアドレセンスの記憶はナボコフの人生にとって、小説にとって、核となる大切なものだったのだろう。ロリータにはコレットのイメージが投影されているし、その他の作品にも幼少年期に見た情景がくりかえし登場する。
 たとえば、このたび沼野充義によってロシア語から新たに翻訳された『賜物』も自伝的な色彩の濃い小説で、じっさい、『記憶よ、語れ』と共通する部分も少なくない。『賜物』の主人公フョードルは、白系ロシアの亡命者でベルリンに住み、文学に志し、蝶とチェスをこよなく愛するナボコフの分身的存在である。
 第一章で、熱でベッドにふせっているフョードルが母の姿をありありと透視する場面――、


 「チンチラのコートを着て水玉模様のベールを掛けた母は、馬橇に乗り込み(当時のロシアの御者の、異様に膨れ上がったお尻と比べると、馬橇はいつもとても小さく見えたものです)、青いネットの馬衣を着せられた二頭の黒馬が、鳩色のふかふかしたマフを顔に押し当てた母を乗せて疾駆していきます。」


 モルスカヤ通りをネフスキー通りにむかって橇を走らせている母の姿は、『記憶よ、語れ』ではこう描かれている。


 「眼の前には、そしてまた母の眼の前にも、厚い綿入れの青い外衣を着た御者の後ろ姿と、腰帯から皮紐でつるされてゆれている皮ケース入りの懐中時計(二時二十分をさしていた)と、その下のかぼちゃのようにふくらんだ、大きな、がっしりした尻とがぼんやり浮んでいる。母はあざらしの毛皮のマフに手を入れていて、スピードが出て冷たい風が頬を切るようになると――ペテルブルグの女性が橇の上でよく見せる優雅なしぐさで――そのマフを頬に当てる。」


 そしてトレイマン商会の店の前で橇がとまると、母は店にはいり、小さな買物の包みを手にして出てくるのだが、やがて馬橇が家にもどり、母が部屋にはいってくると、手にはファーバー社製の一メートル以上もある巨大な飾り物の鉛筆を抱えているのだった。このときの体験はナボコフにとって強烈な印象を残したものらしく、『記憶よ、語れ』でも『賜物』でも同工異曲の描かれ方をしている。
 このたびのロシア語からの新訳では、ロシア語での言葉遊びに注釈がつき、はなはだ有益である。たとえば「詩の肉体と散文の透明な亡霊」といったフレーズは、原文ではすべてpの音で始まる単語による頭韻で構成されており、沼野氏はこれをサ行の音にそろえて「詩の身体と散文の透き通った精」と訳しているごとくである。これも注釈がなければつい読み過ごしてしまうところだけれども、この手の遊びは日本では和歌によく見られるもので、文藝というものの在り方にあらためて思いを致すことにもなる。散文の一節に頭韻など要なきものといえばその通りかもしれないが、要なきものに骨身を削るのが文学者というものの宿命なのである。
 さて、この新訳『賜物』でおもしろかったのは、開巻早々に出てくるこんな表現。フョードルが、自分の出した詩集を絶賛する書評が出たと友人からの電話で知らされて動顛する場面。受話器を置こうとしてスタンドを落としそうになったり、食堂の食器棚の角に尻をぶつけたり、ちょうどそこを通りかかった夫人に浮かれて余計なお追従を口走りそうになったりしたあげく、「しかし、彼は晴れ晴れとした微笑みを浮かべるだけにとどめ、脇に跳びのいた猫の体について行きそこねた虎縞模様につまずきそうになった」。まるでディズニーかなにかのアニメーション漫画を思わせる滑稽な場面だ。パトナムから出た英訳版を元に翻訳した『賜物』(大津栄一郎訳・福武文庫)では次のようになっている。「しかし結局愛想笑いを浮かべただけだった。そしてその瞬間、相棒の猫を追いかけると見せて、ふいにひょいと脇に跳びのいた虎猫に、もう少しでつまずきそうになった」
 やはりここは、虎猫ではなく、置き去りにされた縞模様につまずいてもらいたい。手許に英訳版がないので原文はまだ確かめていない。