もうひとつの眼球譚――藤野可織「爪と目」を読む
爪を噛むくせがある。還暦を疾うに過ぎた男が爪を噛むのはみっともない。わかってはいるが、「雀百まで」でいっこうに直らない。いつだったかもう中年をすぎた頃だったと思うが、電車の中で無意識に爪を噛んでいて隣に座っていたおじさんに注意をされたことがある。赤面した。もうよしなさい悪いくせ、爪を噛むのはよくないわ。ペギー葉山の歌声が頭のなかでひびく。
たかが癖でも半世紀もつづけていると熟練するもので、噛み跡はちょっと見には爪切りで抓んだようになめらかで、ささくれるようなことはない。歯をヤスリがわりにつかう技術も修得した。だれかに伝授したいほどだ。足の爪は堅いので噛まない。
「新潮」4月号で山城むつみの評論を読んだついでに藤野可織の「爪と目」を読む。このたびの芥川賞を受賞した小説である。
語り手の「わたし」と、その父、父の愛人である「あなた」、その三人の同居生活と、死んだ「わたし」の母、「あなた」の愛人となる古本屋の男たちとの交流が語られる。観念的な小説だがリアリズム風のよそおいなので、そのバランスが小説の出来映えを左右することになる。初期の倉橋由美子の小説の系譜といっていいか。そういえば二人称小説という点で『暗い旅』とも共通する。
三歳の女の子だった「わたし」には爪を噛むくせがある。母の死がきっかけだとされるからストレスのせいか。わたしが爪を噛むようになったのは何が原因だったのだろう。気がついたら噛んでいた。若い頃、ストレスで十二指腸潰瘍になったことがあるが(レントゲンをとると引き攣れの痕がのこっている)、幼い頃にもなにかストレスがあったのだろうか。そのストレスはトラウマとなってわたしに爪を噛ませつづけているのだろうか。
「あなた」は近視でハードコンタクトレンズを装着している。それは「眼球の上で少しの乾きと痛みを与え続け」ている。眼球に傷をつくった「あなた」と季節性結膜炎にかかった父が眼科の待合室で出会い、ふたりは母がまだ生きているうちから交際をはじめる。眼科の待合室で出会った年の離れた男女が愛人関係にまでなるには相応のいきさつがあるはずだが、それは小説では語られない。語り手である「わたし」の知らないところで進んでいたのかもしれない。もっとも「わたし」は幼稚園児だが、語り自体はずっとあと、「わたし」が「あなた」より背が高くなってからのいわば「回想」であり、しかも「全知の語り手」でもあるのだから、たんに省略しただけなのだろう(語り手は登場人物でもあるのだから、これは「信用できない(全知の)語り手」ということになる)。
「あなたと父は、よく似ていた」と語り手はいう。だが、ふたりはそれほど似ているわけではない(としても不思議ではない、信用できない語り手なのだから)。というより、父がどういう人物であるのかがよくわからない。娘である「わたし」、妻、愛人の「あなた」にたいして、父がどういう考えをもっているのかがよくわからない。「あなた」にくらべると父はどこか書き割りのような人物である。よく似ているのはむしろ「わたし」と「あなた」である。ある種の欠損をもつふたりは互いの分身(ダブル)、あるいはアルターエゴである。ようするにこの物語は一種の幻想譚であり、ラストはホラーじみている。欠損と欠損(爪と目)とが合体し、ふたりはひとつになる。ポウル・ボウルズだったかジューナ・バーンズだったかにちょっと似た読後感の短篇があったような気がしないでもない。この小説もそう思って読めばなかなか愉しい読み物で、それはたとえば次のようなぬめりを帯びた生理的・内臓感覚的な記述による。
「父は、死んだあとの妻のまぶたをおぼえていた。まぶたはおおむね閉じていた。下睫毛とのあいだのわずかな隙間に、おそらくは白眼が覗いていたはずだが、記憶には残らなかった。それよりも、死んで間もないのにまぶたの肉が痩せたことが印象的だった。これまで皮一枚と思われたまぶたにも脂肪や筋肉が詰まっていたことを父は知った。痩せおとろえたまぶた越しに、隠された眼球のかたちがはっきりとわかった。水分を失った眼球は、型くずれしはじめていた。ほんとうならただ丸く膨らんでいるはずのまぶたは、膨らみの最頂部でぽこんと小さく凹んでいた。それが、死んだわたしの母のまぶただ」
死者のまぶたの微細な記述。型くずれしはじめた水分を失った眼球がこわい。ブニュエルにはおよばないけれど。こうしたエクリチュールは幻想小説にとって欠くことのできないアイテムのひとつである。
いっぽう、「あなた」が家の和室の押入から、死んだ母が遺した本の詰まった段ボール箱を見つける場面はかなり詳細に描かれるのだが、いかにも「観念的」である。
押入の段ボール箱は「すぐに見つかった」というのだから、一箱か、せいぜい二箱だろう。二箱と書かれていないから、たぶん一箱なのだろう(三箱以上あれば、それはそれで別の意味が生じる)。箱の中身をすべて床に空けると、単行本と文庫本の小説(単行本の八割はおおむね新品同様、文庫本はどれも薄汚れている)、それに外国の絵本と料理本であったという。「外国の絵本のうちなんとなく表紙の気に入ったものを四冊だけ選び出して畳に置き、あとはためらいなく詰め直した」というから外国の絵本は十数冊はあったかと思われる。外国の絵本はたいがい大型本なので、段ボール箱に十冊あまりを入れるとスペースの半分は埋まる。あとの単行本、文庫本、料理本合わせて三十冊程度か(単行本が十五冊、文庫本が十冊、料理本が洋食和食ちょっとしたお惣菜カンケイがそれぞれ一冊にスイーツ二冊の計五冊といったところでしょうかね)。
「あなた」はインターネットで古書店を検索する。すると近くにある「カフェが併設された、芸術書なども取り扱う小さな店」が見つかる。「雑誌にもちょくちょく載るような、有名な店」であるらしい。その古本屋の店長がやってきて古本の査定をするのだが、現実に古本屋に電話で段ボール箱の本のあらましを伝えたとしたら、買取りのためにわざわざ出張することはまずない。あいにくとちょっと引き取れませんねとあしらわれるか、単行本と絵本だけ紙袋に入れてお持ちいただければ拝見しますとか言われるのがおちだ。その店長がたまたま暇をもてあましていて、若い女性の声にひかれて気紛れに買取りにやってきたとしよう。しかし店長がどんなに愚図でも「査定には一時間ほどかかった」などということはありえない。じっさいには五分とかからないだろう。こうした箇所はいかにもリアリズム風でありながら、そのじつ「観念的」である。観念的というのは、この小説が観念的小説であるというのとはちがって、いかにも頭でこしらえたつくりもの、という意味である。ほんらい観念的小説ならこうした箇所は徹底してリアルであるか、さもなければ逆に超現実であるかでなければならない。頭でかんがえた中途半端なリアリズムは読者の興をそぐだけである。
母の蔵書の一冊が「架空の独裁国家を舞台にした幻想小説」であるというのも無理がある。この本は母の蔵書には似つかわしくない。そういう小説を読むか買うかする人物であるならそれなりの描き方が必要であるはずだし、まちがって買ってしまい数ページ読んで投げ出したのならそれを示唆する設定が必要だ。古本屋の出張買取りが、「あなた」と古本屋の男とを出会わせるためだけにしつらえたシチュエーションであるのと同様、この「幻想小説」もそのなかの次の一節を導入するために仮初めに母の蔵書とされたにすぎない。
「あんたもちょっと目をつぶってみればいいんだ。かんたんなことさ。どんなひどいことも、すぐに消え失せるから。見えなければないのといっしょだからね、少なくとも自分にとっては」
この「成り上がりの独裁者が、お抱えの伝記作家に耳打ちした忠告」だという科白は、その少しあとで「あなた」の言葉として「わたし」に語られる。
「えっとね、いいこと教えてあげる。見ないようにすればいいの、やってごらん、ちょっと目をつぶればいいの、きっとできるから、ほら、やってごらん」
わたしは「だいぶあとになって」、母の本を見つけてこの一節を発見する。独裁者は「見ないことにかけては超一流」で目をつぶって肉体や精神の苦痛をしのいだのだが、「わたし」や「あなた」は「結局はか弱い半端者」なので独裁者のようなわけにはゆかない、と語られる。つまりはこれが言いたいためにこの「幻想小説」が召喚されたのだが、べつだん母の蔵書である必要はない。「幻想小説」は「あなた」と「わたし」をつなぐアイテムではあるけれども、母とのつながりは希薄だ。
「あなた」が小説のその一節を見つけたのは、本の「上端に小さく折り目のついたページがあるのに気付いた」からだ。それは「折られたのか、しぜんと折れたのか判断がつかないほどの小さな折れ目」で「ノンブルの数字のひとつよりまだ小さかった」。そのページを開くとそこにその一節があったというわけである。
かりに母がその一節のためにページの端に折り目をつけたとするなら、母は「あなた」と父との交際に気づいており、その一節がそれを暗示するという解釈が成り立つ。だがその「ひどいこと」は目を閉じてもかんたんに「消え失せ」ず、母は結局ベランダでみずから命を絶つことになるのである。むろんそんなことはこの小説「爪と目」にはひと言も書かれていない。だから「折られたのか、しぜんと折れたのか」は明らかにされない。こうしたアンビギュイティ(曖昧さ)は幻想小説の常套である。
母はインターネットに写真を主体にした(テキストは一行か二行ほど)「透きとおる日々」という題のブログを持ち、そこに模様替えをしたというソファやら食器棚やらの写真をアップしている。このブログのエピソードは、しかし小説のなかでうまく機能していない。むしろ母の読んだ「架空の独裁国家を舞台にした幻想小説」がこのブログにいつのまにか徐々に浸入してくるといったふうに展開させればブログは明確に意味をもってくるだろう。日野啓三に、毎日少しずつ風に吹かれてマンションに飛んでくる砂粒がいつのまにか堆積して……という幻想的な小説があった。母のノートパソコンは母が死ぬ三週間ほど前に壊れたのだが、それはおそらく独裁国家に起こったクーデタか革命の激しい戦闘のせいにちがいない。このプロットにはさらに枚数が必要だし、母の占めるウェイトが増して作品の性格も大幅に変ってこざるをえない。だが、たとえばリチャード・パワーズやスティーヴ・エリクソンのような小説家ならきっとそちらの方向へ持ってゆくだろう。
いずれにせよ、この若い小説家が今後さらに力をつけて長篇小説を手がけるようになれば、そうした作品を読んでみたいと思う。
最後の場面の「よく訓練された歯を使って」という表現から推測するに、「わたし」の爪を噛むくせはその後もずっと継続していたらしい。わたしのくせもこのまま死ぬまで直りそうにない。
追記。「爪と目」は他に二篇の短篇を収録して単行本になった。昨日(金曜日)の朝日新聞朝刊に『爪と目』の全5広告*1が出ていた。ボディコピーはこうなっている。
《三歳の娘と継母。父。喪われた実母――その「家庭」に、いったい何が起こったのか? 巧緻を極めた立体的な「語り」によって徐々に浮上する疑問。入れ替わる「被害者」と「加害者」――不気味さに翻弄される快感が、「読者(あなた)」を襲う。》
あらら、そんなお話だったっけ。きっと営業会議で「この線」で行こう、ということになったのだろう。「継母の愛人の古本屋の男!」と書かなかったのは、あまりに通俗的になっちゃいそうだったからかな。キャッチコピーはこう。
《史上もっとも饒舌で冷徹な「三歳児(わたし)」。「わたし」は「継母(あなた)」のすべてを見ている――。》
家政婦は見た!じゃなくて、三歳児は見た!ですね。もっとも「饒舌で冷徹」なのは三歳児でなく、語り手の「わたし」なのだけれど。おまけに《選考会を震撼させた、純文学恐怖作(ホラー)》なんて、ちょっとアオリ過ぎのような気がするけれど、一千万近い広告費(この新聞広告だけで)をつぎ込んでとにかく売らなきゃ!ということでしょうね。選考委員の堀江敏幸の評が抜粋されている。
《ひとつひとつの言葉は透明なのに、全体として不透明な世界ができあがっている。まるで戸外に閉じ込められたような感じがした。》
いつもながらうまいね、堀江さんは。ほかの選考委員はなんて言ってるんだろう。文藝春秋が出たら読んでみよっと。
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*1:かつての1頁15段のときの全5サイズ。いまは12段になっているから全4というのだろうか。