1938年の小林秀雄――山城むつみの連続する問題



 図書館で月遅れの雑誌を借りる。「新潮」4月号。〈没後30年特集 2013年の小林秀雄〉のなかの一篇、山城むつみの「蘇州の空白から――小林秀雄の『戦後』」(長篇論考180枚)を読む。これも前回の「連続する問題」につらなっている。
 「いつか時間を作って、小林秀雄の従軍記事を熟読したいと思っている」と山城は冒頭にしるしている。思っているのは、この長篇論考180枚を書き上げる前なのかそれとも後なのか。「思っていた」と過去形で書かれていれば、熟読した結果この長篇論考180枚が書かれた、ということを示唆するのだが、この時点での山城の立ち位置ははっきりとしない。つづけて、「むかし通して読んだが、こちらの無知のせいもあって(略)どの従軍記事も今ひとつ胸に届いて来なかった」と書く。ならば、このたび熟読して、なにかしら腑に落ちるところがあったということなのか、と考えつつ読み進める。
 小林秀雄は従軍報告の一篇「雑記」において「物の考へ方が行つて来て違つて来たなぞといふ事も無論ない。戦跡見物ぐらゐで人間の思想が新たになるなぞといふ馬鹿げた事も起りやうがないのである」と言いつつ、それに反するかのように「然し僕の心の裡で何かが変つたらう、自分でもはつきりしないが、見物して来た戦後のど強い支那の風物は、僕の心のうちの何かを変へたらうとは感じている」と述べる。山城はその言葉に着目し、小林の従軍記事を熟読すれば、小林の「自分でもはっきりしないが」「心のうちの何かを変へた」ものの「本質的変化の痕跡にきっと触れることができるはず」だと思う。
 小林は杭州行きの汽車にのるつもりでうっかりと反対方向の南京行きの汽車に乗ってしまう。上海では「上海時間」と「日本時間」とが併用されていたからだ。最初の従軍記事「杭州」に記されたこのささやかなエピソードを敷衍して、大陸での小林には戦地の時間と内地の時間との二つの時間が流れていたのだ、と山城はいう。「そこ」と「ここ」、その二つのあいだで小林は「奇妙に混乱した感覚を強いられている」と。そして「杭州」から比較的長いパッセージを引用してみせるのだが、先回りしていえば、それはこの長篇論考180枚の核心とでもいえる言葉である。


 《こちらに来た翌日、行き違ひになつて会へまいと思つてゐた東朝のSに偶然会つた。彼は航空隊附の名記者である。何だ未だゐたのかと言ふと、ちよつと○○の爆撃を済ませて還らうと思つてね、と何か自分でちよつと済ませる様な顔をした。へえ、そんなものかね、だつて下から打つだらう。愚問と知りつゝ聞いて見ざるを得ない。そんなものつて何がさ無論無闇に打つて来るさ、まあ一ぱいどうだ此の頃は昼間からこれだ。Sはコツプにウイスキイをドクドク注いでくれる。見たところ洋服を新調したり、靴を誂へてみたりし乍ら日和を待つてゐるらしい。(略)そんな空気をやゝ納得するにも数日を要した》


 小林が大陸にわたり、上海、杭州、南京、蘇州と移動したのは1938年3月から4月下旬にかけてである。1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに華北で日中の衝突が起こり、日本軍は杭州湾に上陸、日本側の戦死者1万余名を数える激しい戦いのすえ上海を攻略し、その勢いで12月首都南京を陥落させた。日本国内では南京陥落を祝う祝賀行事が盛大に催され、各地で提灯行列が行われた。「見物して来た戦後のど強い支那の風物」と小林のいう「戦後」とはこの時期のことである。ああ、戦後なのだな、と思う。日中戦争から太平洋戦争の時代を総称してのちに十五年戦争とも呼ばれるけれども、南京陥落で日本人のだれもが戦争は終わったと思っていたのだろう。わたしたち戦後生まれのものは、ともすれば戦時下の生活を太平洋戦争末期のようなイメージで捉えがちだが、この時期の日本国内は戦勝気分に沸き立ち、「戦後の平和」を謳歌していた。太平洋戦争の敗戦後ですら国民のあいだにはある種の開放感があったのだから、ましてや戦いに勝利をおさめた戦後の気分がいかなるものであったかは想像にかたくない。小林のいた「ここ」内地の時間とはそういうものである。
 その戦後の気分は、「そこ」外地においても同様で、「激しい戦闘の緊張は十二月の首都南京占領前後を区切りに急速に弛緩し始める」と山城は書く。「多くの兵士の意識においては、遅くとも翌年三月には戦争は終わっていたようだ」。そして弛緩した兵士たちが現地住民を「殴打し、物を盗み、女を姦し、家を焼き、畑を荒す。それらが自然に、何のこだわりもなく行われました」と徐州会戦(1938年4〜6月)に従軍した武田泰淳がのちに小説「審判」で描いたと同じような出来事は、前線ほどでないにせよ、あるいは日常的に見られたのかもしれない。
 小林の「心のうちの何かを変へた」のは、そうした「戦後のど強い支那の風物」を目撃したためだろうか。そうではない、と山城はいう。


 《小林秀雄の目を瞠らせた真に「恐ろしい」ものはその「ど強い」現実そのものではなかったからである。/「ど強い」現実は、むろん、恐ろしい。しかし、それよりもはるかに「恐ろしい」のは、その恐ろしく「ど強い」異常を、異常のまま(5字傍点)、しっかりと日常の一部として組み込んでいる「空気」なのだ》


 へえ、そんなものかね、だつて下から打つだらうと聞けば、そんなものつて何がさ無論無闇に打つて来るさ、まあ一ぱいどうだ、とSはコツプにウイスキイをドクドク注いでくれる。そこでは「非常時が非常時のまま、茶飯事(ウイスキーを飲むこと、シャワーを浴びること)と並列的にぴったり直に接続され、日常生活の一部としてしっかりと組み込まれてしまっている」。


 《小林が「そこ」に渡っていくつも失錯につまずきながら次第に感受していくのは、「そこ」の日常には、ほんの「一時間」(東京と上海の時差)程度の些細なひずみによって、感知できない小さな穴がいくつも空いていて、そこに踏み入ってしまえば、強姦へであろうと、虐殺へであろうと、掠奪へであろうと、放火へであろうと、どんな「ど強い」異常へもこの日常から地続きにわずか一歩で易々と至り着いてしまうことの「恐ろし」さだった》


 小林は蘇州で「皇軍」の慰安所を「見学」に行く。小林が「文藝春秋」1938年6月号に発表した「蘇州」の、検閲でページが破り取られたり伏字になっていたりする箇所を、山城は国会図書館大宅壮一文庫など八方手を尽くして復元する。以下は復元された断片の一部である。


 《蘇州は戦前より人口が増えたといふ。皇軍大歓迎の飾り附けの色も褪せ、街はもう殆ど平常な状態に復してゐるらしく見えた。銀行めいた石造の大きな建物に頑丈な鉄門が開かれ、「慰安所」と貧弱な字が書いてある。二階の石の手摺のついたバルコニイに、真ッ赤な長襦袢に羽織を引ッ掛けた大島田が、素足にスリッパを突ッ掛け、煙草を吹かし乍ら、ぼんやり埃つぽい往来を見下してゐる。同行のA君と顔を見合せて笑ふ。何が可笑しくて笑ふのか。無責任な見物人の心理は妙なものである。(略)慰安所には、見学禁止と大きく書かれてゐて、見物するわけにはいかないので、やはり実際に慰安を求めに這入らなければならない。杭州では火野(葦平)伍長から切符を分て貰つて登楼した。「一発」と書き、下に下士官一円五十銭、兵一円とある》


 山城によれば「「切符」とは「花券」とも呼ばれる慰安所の買春チケットで、これは軍から各将兵に配給されていた。つまり、個々の将兵が直接、現金で支払うのではなく、配給された「切符」で支払う。慰安所を運営していた業者がそれを慰安婦から回収して軍に相当額を請求するというシステムだったらしい」。軍が「慰安費」のようなものから支払ったのか、それとも将兵の給与から差し引いて支払ったのかはさだかではない。「慰安費」のようなものからだとすれば、国家が売春に直接関与していたことになる。いずれにせよ「花券」なるものが存在し、そこには「派遣軍慰安所」「金×円」「本券一枚御一名限」と明記されていた。この論考の挿図として掲載された「花券」*1には「一発」とは書かれていないが、「二発」を強要する兵もいたのかもしれない。


 《皇軍慰安所なるものがあってその「切符」に「一発」何円と書いてあるなど、あまりに露骨で、とうてい「ここ」の感覚では考えられない馬鹿馬鹿しいことである。しかし、そのありえないことが「そこ」では、ありえないことのままごくあたりまえのことになっており、「ここ」の常識では考えられない露骨なことが露骨なまま、しかも市場で砂糖黍のジュースでも売られるようにあっけらかんと何ごとでもない常識として眼前に物質化し、平然と通用している》


 小林が渡航する一、二ヶ月前、「ここ」日本国内で「婦女誘拐を疑われる不審な慰安婦募集活動が続発」するという事件があった。「人身売買めいた勧誘をしている連中が商店街を徘徊している」との通報を受けた和歌山の警察が不審な男たちを連行して取り調べると、陸軍が上海で慰安所の設置を企図し内地から三千人の娼婦を送り込むことになり、自分たちは上海に送る娼婦の募集活動をしているのだ、大阪と長崎では警察の便宜をうけてすでに70人の娼婦を上海に送った、という。取り調べた警官があまりの常識はずれの話に、軍の名を騙った誘拐事件かと当該警察に問い合せた結果、業者の供述はおおむね事実と合致していた。
 占領地の日本軍兵士のために慰安所が設置されたのは1932年の第一次上海事変からとされている。だが、それから数年たった当時の日本国内においても、将兵のための慰安所が設営されそこで大っぴらに売春が行われているなどということはあまり公にしてはならないことであり、国家権力である当の警察でさえにわかには信じがたいことだったのである。
 小林の「蘇州」が検閲で伏字にされたのは、「皇軍の威信を毀損し併せて風俗壊乱の虞ある」によってである。すなわち慰安所について書くことは天皇の軍隊の「威信を毀損」することだったのである。ちなみに「風俗壊乱」とは「当時の国家当局が文学作品、とくに男女の性愛に関する表現を禁圧する際に用いた罪名である」*2


 《軍慰安所が存在するという事実が警察の取調官にとってわが耳を疑うことだったように、慰安所の「切符」に「一発」何円とあるのは小林にはわが眼を疑うべきことだっただろう。しかし、「そこ」を流れる時間の中では、わが眼を疑うべきこの事実が、そのまま茶飯事と並列的に日常の一部として平然と組み込まれており、それを問題にすることがそのまま「愚問」になってしまう「空気」があるのだ》


 小林がそのルポルタージュで書こうとしたのは、そして小林の「自分でもはっきりしないが」「心のうちの何かを変へた」ものとは1938年の蘇州の「空気」にほかならない。1938年の蘇州から75年を経た「ここ」日本国内でその空気を感受するのはむずかしい。だが、歴史にふれるとは、能う限りその空気を感じることだ。膚をなでる風のように。でなければ、歴史はとどのつまり観念でしかありえない。山城が手間を厭わず当時の雑誌や新聞を図書館で複写したのもそのためにちがいない。


 《「そこ」においては、空爆や残敵討伐がウイスキーをドクドク注ぐこと、そのコップを持ってバス・ルームに入ることと隙間なく並列するように、慰安所もまた日常生活の一部分となっており、将兵たちは「そこ」の時間を刻むその独特のリズムに従ってそこに足を踏み入れる。慰安所そのものではなく、その「空気」が異様だから、小林は慰安所を「見物」したのだが、小林はやはりそこを支配しているリズム、その「空気」につまずいただろう。つまずくことによって、決して「ここ」ではない「そこ」、決して「ここ」にはならない「そこ」があることに気付くのだ。不穏な「空気」から自分だけが自由になることはできないということを小林は直覚していただろう》


 「それが小林の戦争経験なのである」と山城はいう。小林は(太平洋戦争の)戦後、最初の文章「感想――ドストエフスキイ」にこう書く。「僕は、彼の作品に関する新しい解釈などを、今はもう少しも望んでゐない」。そして一千枚におよぶ研究ノートを抛って白い原稿用紙にむかって「冒険」をはじめる。それが「『罪と罰』について」(1948年)と「『白痴』について」(1952〜53、1964年)である。ドストエフスキーの歩いた痕を、その轍を愚直にたどることが「そこ」へ至る唯一の道であるかのようにして書かれた、あの、異様な「批評」の文章。
 だがその小林の回心がなぜ戦争体験によってだったのか。山城はさらに石原吉郎ラーゲリ体験、トルストイドストエフスキーフロイトの「モーセ一神教」を召喚し、小林秀雄の後姿を追いかけるのだが、山城むつみの轍を愚直にたどってきたこの文章もこのあたりでいったん中断することにしよう。山城のこの「蘇州の空白から――小林秀雄の『戦後』」と題された長篇論考180枚は、『連続する問題』、『ドストエフスキー』さらに20年前の批評家としての初心である「小林批評のクリティカル・ポイント」「戦争について」*3にダイレクトに連続する問題である。この長篇論考180枚を読んだあとで「戦争について」を読み返してみるなら、彼の思索の深まりが尋常でないことを知るだろう。わたしもまた、その弛みのない歩行の後を覚束ない足取りで追いかけたいとおもう。


 ――言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する。あるいは、主体をつつむ状況の全体を離脱する。私たちがどんな状況のなかに、どんな状態で立たされているかを知ることには、すでに言葉は無関係であった。私たちはただ、周囲を見まわし、目の前に生起するものを見るだけでたりる。どのような言葉も、それをなぞる以上のことはできないのである。
                     ――石原吉郎「沈黙と失語」*4

*1:政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成 第一巻より転載されたもの。

*2:ジェイ・ルービン『風俗壊乱――明治国家と文芸の検閲』、訳者(今井泰子)あとがきより、世織書房、2011年

*3:『文学のプログラム』講談社文芸文庫、2009年

*4:『日常への強制』構造社、1970年