A confession of the unfilial son



 ひと月ほど前に書いた拙稿に鄭重なコメントをいただいた(id:qfwfq:20100829)。コメントをくださった「なおひこ」さんは幼い頃にお父さんからシベリア抑留体験の話を何度も聞かされた、と書いていられる。わたしの父も出征したが、戦争の話を父から聞いたことはない。父は、同年輩の人とはそうした話もしていたようだし、ときには戦友たちとの集まりにも出かけていたようだが、家族とは、また違った接し方があったのだろう。
 しばらく前に父にふれて短い文章を書いたが、あまりに個人的な内容なのでアップするのを躊躇い、没にした。だが、「なおひこ」さんのコメントを読み、掲載してもいいかと思い直した。以下が、その文である。読み捨ててくださると幸いである。


 上野千鶴子さんのエッセイ集『ひとりの午後に』(NHK出版)を読んでいて、思わず胸を衝かれた。上野さんはこう書いていられる。


 「今年も父の命日をあやうく忘れそうになった。親不孝な娘である。」


 わたしは忘れるどころか、そもそも父の命日をおぼえていない。何年何月かまではおぼえているが、忌日はたしかでない。親不孝な息子である。
 祥月命日の法要はもっぱら生家に住む弟夫婦にまかせきりで、年忌以外には墓にも参らない。だが、ひとの死を悼むのは日付ではない、墓に詣でて手を合わせることではない、といいたい気持がわたしにはある。そんな世迷言が世間に通用しないことはいくら極楽とんぼのわたしでも承知している。だから口には出さない。「親不孝なもので」と冗談めかしていう。すると相手も冗談と受けとって、まさかほんとうに命日をおぼえていないとは思いもしない。


 昨年の夏から秋にかけて、ひとつの小さな物語をこしらえた。まだ二十代だった父にまつわる物語だ。
 父は日中戦争に一兵卒として出征した。戦地でマラリアに罹った父は内地へと移送され、生れ故郷近くの陸軍病院で一年以上におよぶ養生の日々を過した。まだアメリカとの戦争が始まる前だったが、病いが癒えるといずれ戦地へ戻り二度と故郷の地を踏むことはないかもしれない、という懼れも当然もっていただろう。つかのまの療養生活は、だが二十代初めの青年にとって奇妙に心安らぐ「青春の日々」でもあったらしい。そんな日々のことを、父が大切に保管していた慰問の書翰をもとに小さな物語として書いてみた。親不孝な息子の父への哀悼の思いも幾分かはあってのことである。
 書きながら思ったのは、わたしが父のことをなにも知らないということだった。いまのわたしの息子と同じ年頃の若い父は、その頃いったい何を考えていたのだろう。遺された手紙は当然父宛てのものばかりで、父が出したものは一通もない。手紙をやり取りしていたらしい女学生の文面から父の気持を推し量るしかなかった。
 だが、ひるがえって考えてみれば、青年時代の父のみならず、中年の、そして老年の父についても、わたしはほとんど知るところがない。父がなにを思い、どう生きようとしたのか、わたしは知らない。いまさら問いかけても、もう答えは返ってこない。
 二十歳の頃、ひとつの小さな物語を書いたことがある。十八歳で自裁した級友の話だ。そこでもわたしは「ぼくは君のことを知らない」と書いたはずだ。つくづく進歩のない人間である。
 上野さんはそのエッセイでこう書いている。


 「わたしが生きているあいだ、わたしの記憶のなかにあのひとたちは生きつづける。」


 墓参りをしなくとも、父や母は記憶のなかで生きつづける。「それでよいではないか」と。
 山田稔も「詩人の贈物」で書いている。「人は思い出されているかぎり、死なないのだ。思い出すとは、呼びもどすこと」と。
 

 わたしが死ぬその日まで、わたしは父を呼びもどし、父に問いかけ続けるのだろう。「父よ、あなたはどう生きようとしたのですか」と。答えのない問いを、わたしは死ぬまでわたし自身に問い続けるのだろう。
 親不孝な息子を慮って、母は決して忘れようもない日にこの世を去った。母の命日は十二月三十一日、大晦日である。