木戸にとまった一羽の小鳥――『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』を読む



 タイトルが『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』、著者の「11冊目の小説、18冊目の著書」だからそう名づけたのだという。なんとも人を喰った小説(家)ではないか。
 このノルウェイの作家ダーグ・ソールスターの著書をいままでに読んだことのある人は、日本では皆無とはいわないけれど、おそらく100人といないだろう。そんな小説が翻訳されて書店で平積みになるというのは、むろん村上春樹が訳したからである。村上春樹自身もオスロの空港でこの小説の英訳をたまたま見つけるまでは、ソールスターについてはなんら知るところはなかった、そして、飛行機に乗って数ページを読み出したら止まらなくなって夢中で読みふけった、と訳者あとがきに書いている。ふーん、村上春樹をそれほどまでに夢中にさせた(なおかつ訳してみようとまで思わせた)小説とはいったいどういうものなのか。
 村上は「とにかく不思議な小説だ」「タイトルだけではなく、中身もそれに負けず劣らずユニークだ」と書いている。ユニークなのはそのスタイルで、「いったい新しいのか古くさいのか、それすらうまく判断できない」。


 「文体や筋立ては一見してかなり保守的なのだが、全体的なたたずまいはむしろ前衛的ですらある。僕はこの本について「それはどんな小説ですか?」と誰かに訊かれるたびに、「そうですねえ、コンサバな衣をまとったポストモダンって言えばいいのか……」ととりあえず答えてきたのだが、それ以外の適当な表現はいまだに思いつけずにいる。」


 どうですか。読んでみたくなるでしょう?「コンサバな衣をまとったポストモダン」とは手法的にはリアリズムだがどこか微妙にずれている、といった「彼独自のスタイル」を指してのことだろう。いわゆるオフビートな感じなのかなと思って手にとってみた。
 で、読み終えた印象はというと……ビミョーです。「読み出したら止まらなくなる」という小説ではなかったな、わたしの場合。途中でちょっと飽きたし。それでも投げ出さずに最後まで読み終えたのは、村上春樹のいう「予測不可能なストーリーライン」にたいする興味からではなく、この小説のいったいどこがそれほどまでに村上春樹を捉えたのか、それを知りたいという興味からだった。「読後思わず唖然としてしまう」という結末についてはむろんここでは書かないけれど、それも「予測不可能」というほどではなく「想定の範囲内」ではないかと思う。
 村上のいう「独特の巧まざるユーモアの感覚」というのはたしかにあって、たとえば、「ヴィリニュスはどこにあるのか? ヴィリニュスはヨーロッパのどこかしらに位置している。それ以上正確に述べるのは不可能だ」といったすっとぼけた記述にも窺うことができる。これは「巧んだ」ものだけれども(ヴィリニュスはリトアニアの首都である)。


 主人公ビョーン・ハンセンは妻と別れ、幼い子供を妻のもとに残してツーリー・ラッメルスという女性と暮らし始める。ハンセンはノルウェイの地方都市コングスベルグの収入役になり、彼女とともに演劇活動にいそしむようになる。イプセンの「野鴨」の上演を手がけたりするのだが舞台は惨憺たるもので、それが原因ではないけれども二人は14年間連れ添ったあげく別れることになる(だが、何が原因だったのだろう)。物語は、二人のラブストーリーにはほとんど関心を示さないかのようだ。
 ハンセンはコングスベルグ病院のショッツという医師を訪ね、ある計画の共犯者になってくれるように依頼する。その計画とは何か、それが物語の焦点になるのかと思っていたら、そうではなく、成人になった息子が一緒に暮らしたいと手紙を寄こし、その息子との生活がもっぱら語り手の関心の中心をしめることになる。ストーリーが次々と脱線してゆくあたりはポストモダン小説の先蹤『トリストラム・シャンディ』的といえばいえなくもないけれども、トリストラムほど突拍子もない物語というわけではないし、あるいはアンチロマンほど意識的な方法論に貫かれているというわけでもない。なんとなくだらだらと続いてゆくストーリーをなんとなくだらだらと読み続けてゆくといった感じ。
 村上は、登場人物に「感情移入をすることはほとんど不可能」であるのは彼らの「心理や意図に、それぞれの個人的な論理はあっても、それらの論理が互いに有機的に絡み合っていくことがないからだ」と書いている。「それらはただすれ違ったり、ぶつかり合って行き先を失ったりするだけだ」と。それはその通りであって、登場人物たちのあいだに激しいぶつかり合いや葛藤は存在しない。主人公ビョーン・ハンセンが妻と別れるに際しても、また、愛人ツーリー・ラッメルスとの出会いと別れにしても、彼らのあいだに葛藤はない。ほとんど20年ぶりに出会った息子との間にも。
 これがたとえば『8月の家族たち』のような作品(戯曲/映画)であれば、家族の間には暑苦しいほどの葛藤があり、その葛藤がストーリーを先へ先へと推進してゆく。あるいはヌーボーロマンであれば、小説をドライブするのは文体(スティル)である(ちなみにこの小説の冒頭に出てくる作家「ビュートル」は「ビュトール」の誤りですね)。
 では、『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』には何があるか。おそらくここにあるのは、デタッチメントだろう。村上春樹の(初期の)小説を批評する際にキイワードとなったデタッチメント。村上がこの小説に寄せる親近感もそのせいである、というのが、先に書いた「この小説のいったいどこがそれほどまでに村上春樹を捉えたのか」という疑問へのわたしなりのとりあえずの回答である。違ってても責任はもちませんけど。
 村上はこの本を読んだあと、イプセンの『野鴨』を読み返してみたら、「両者のあいだにずいぶん通底した雰囲気があることを発見して、驚いてしまった」と書いている。登場人物たちの「すれ違い方、ぶつかり合い方が、イプセンの戯曲と、このソールスターの小説においては見事なほど通じ合っている。極端なことを言えば、どちらの作品においても、人々はお互いを理解し合うことを意図的に避けているようにさえ見えるのだ」と。
 そうかなあ。『野鴨』の登場人物たちの間にはけっこう「ぶつかり合い」があるような気がするけれども。近代劇ですからね。『野鴨』では「お互いを理解し合うことを意図的に避けている」というよりも、彼らは「真実」に目を向けることを意識的・無意識的に避けているのであって、まあ、それがひいては「お互いを理解し合うこと」を避けていることに繋がるのかもしれないけれど。「雰囲気」は全然ちがいます、とわたしは思います。
 結局、この『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』という小説、面白いのか面白くないのか、わたしにはよくわからない。ひとに薦めるかといえば、「時間があればどうぞ」といったところか。そうそう、「雰囲気」がよく似てると思ったのは、『9990個のチーズ』というベルギーの小説。著者はヴィレム・エルスホット。こちらは80年も前の小説だけれど、すっとぼけたユーモアという点では、こちらのほうがずっと面白い。
 いずれにせよ、驚天動地の事件が起こったりするわけではない。ナボコフが自作の小説に付した序文のことばを借りれば、「しっとりした灰色の日に、一羽の小鳥が木戸にとまっているにすぎない」、そんな小説である。



NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

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