チャンドラーの小説のある人生――新訳『長い別れ』をめぐって

 

 いささか旧聞に属するけれど、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の新訳が出た。訳者は田口俊樹、タイトルは『長い別れ』。ハメットの『血の収穫』、ロスマクの『動く標的』の翻訳に次いで、「ハードボイルド御三家」の長篇に満を持して挑戦した、とのこと。

 清水俊二訳の『長いお別れ』も村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』もすでに読んでいるのに新訳に手を伸ばしたのは「例の個所」がどう訳されているかを確かめたかったからだ。以前、ここで片岡義男鴻巣友季子の共著『翻訳問答』について「チャンドラーを訳すのはやっかいだ」と題して論じたことがある。その個所を中心にかなり詳細に紹介したので、興味のある方は以下のリンクに当たっていただければ幸いである。

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 ここでは、うんと端折って再説してみよう。

「例の個所」とは、The long goodbyeの冒頭、原文で、At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.と書かれているところ。

 清水俊二訳では「“ダンサーズ”では、金にものをいわせようとしても当てがはずれることがあるのだ」。

 村上春樹訳では「金にものを言わせようとしても人品骨柄だけはいかんともしがたいことを人に教え、幻滅を与えるために、〈ダンサーズ〉は、この手の連中を雇い入れているのだ」。

 これに対し、片岡義男訳は「ザ・ダンサーズの客はかねまわりの良さが人の性格をいかに歪めるかの見本のような人たちで、彼は店の客にはすでに充分に幻滅していた」。

 鴻巣友季子訳は「なにしろ〈ダンサーズ〉なんかで働いていれば、人間いくらお金に余裕があっても、人柄が良くなるわけではないという残念な例に山ほどお目にかかるのだから」。

 ついでに触れた『R・チャンドラーの「長いお別れ」をいかに楽しむか』の著者・山本光伸訳は「〈ダンサーズ〉がこの手の連中を雇い入れているのは、どれだけ遊び金を持っていようとお里は知れているということを思い知らせるためなのだ」。

 村上春樹訳と山本光伸訳の「この手の連中」、片岡義男訳の「彼」は、いずれも駐車場の係員を指す。村上/山本訳の、〈ダンサーズ〉が(客に?)幻滅を与える(思い知らせる)ために「この手の連中を雇い入れている」には首をかしげた。駐車係のあんちゃんがどうやって客に幻滅を与えるのか、そこのつながりがよくわからなかったからだ。片岡訳は意味はよく通るが、駐車係のタフぶったあんちゃんが客に幻滅していたという点にひっかかりがあった。そんなにウブなのかね、と思ったのだ(鴻巣訳も幻滅するのは店で働いている人間だという点で片岡訳と同じといっていい)。

 さて、では田口俊樹の新訳ではどうか。

「遊びに大金をはたく人たちは人間的魅力にもあふれている、などという幻想をものの見事に打ち砕いてくれる人種が集まる店が、この〈ダンサーズ〉という店だ。」

 ここではdisillusionを「幻滅」ではなく、「幻想を打ち砕く」と訳している。打ち砕かれたのはタフぶったあんちゃんというわけではない。わたしには、この訳がいちばんしっくりするものだった。ちなみに、わたしが以前、試訳として挙げたのは「ダンサーズには、金に余裕がありさえすれば人柄も良くなるといった迷妄を醒まさせるような類いの人間たちがいるものだ」である。

 清水俊二訳『長いお別れ』は、その切れのいい訳文で、村上春樹も含めてすべてのチャンドラリアンがお世話になった訳書だが、正確さではいささか難点があった。村上訳は原文に忠実に翻訳した画期的な翻訳だったが、その分、文章がややもったりするという難点があった。それは、カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』の訳文に関しても同様である。

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 このたびの田口俊樹の新訳『長い別れ』は、正確さをそこなわず、しかもきびきびとした訳文で「名手渾身の翻訳で贈る決定版」(帯の惹句)というにふさわしい。だれかに薦めるならこの本がいいと思う。

 村上春樹は『さよなら、愛しい人』の訳者あとがきで次のように書いている。

いざ翻訳するとなると、チャンドラーの凝った描写文体は時としてまことに厄介な代物である。癖があるというか、論理的・整合的というよりはむしろ気分で書いていくところがあって(そういうところはフィッツジェラルドの文章に少し似ているかもしれない)、しばしば頭を抱え込まされる。すらすらと読んでいるぶんには「なんとなく気分的にわかる」のだが、細部をできるだけ正確に日本語に置き換えようとすると、場合によってはだんだん頭がこんがらがってきて、「ここまでややこしく書かなくてもいいだろうに」とつい愚痴も言いたくなる。だいたいそんな筋には直接関係のない描写をいくら丁寧に訳しても、読者の大半は適当に読み飛ばしてしまわれるのだろうし(失礼)。

 くだんの個所も、チャンドラーが気分で書いた厄介な代物で、そういう意味では清水俊二訳は「大人の風格のある」(『ロング・グッドバイ』の村上春樹の訳者あとがき)いい訳文というべきかもしれない。村上春樹はおなじく『さよなら、愛しい人』の訳者あとがきでこう述べている。

チャンドラーの小説のある人生と、チャンドラーの小説のない人生とでは、確実にいろんなものごとが変わってくるはずだ。

 いかにも村上春樹らしい警句で、チャンドラーの小説とは半世紀以上の付き合いのあるわたしも、そうかもしれないと思わせられる。これがチャンドラーでなく、ドストエフスキーだとすれば、やや重すぎる。たしかにいろんなものごとが変わってくるだろうけど。あるいは、カフカなら「どんな人生だよ」と突っ込まれそうだ。いろんな作家の名前を当てはめてみるのも楽しいが、やっぱりチャンドラーとかチェーホフあたりがしっくりくるようだ。

 ちなみに「チャンドラーの小説のある人生」を送ったとおぼしい作家の書いた小説を挙げておこう。グアテマラの作家エドゥアルド・ハルフォンの『ポーランドのボクサー』(松本健二訳)という短篇集だ。

ロング・グッドバイ』の「例の個所」のすぐ前にこんな文章がある。

女は駐車係に、ぐさりと突き刺さり背中から少なくとも四インチは飛び出しそうな視線を向けた。(田口俊樹訳)

 いかにもチャンドラーらしい張喩で、村上春樹も小説で(たぶんチャンドラーに学んで)よく使う修辞法だ。『ポーランドのボクサー』の「彼方の」という短篇にこんな一節がある。

ハルフォン先生、フアンが退学したわけをご存じですか? いや、大学では個人的事情としか教えてもらえなかったと私は答えた。わたしたちのほうでそうしてほしいと頼んだのです、と母親は言うと視線を落としたが、あまりの勢いだったので、まるでそのまま花崗岩の床を貫いて地面に突き刺さりそうに見えた。

 チャンドラリアンとおぼしいハルフォンも、『ロング・グッドバイ』の突き刺さる視線の比喩に感銘をおぼえたのだろう。『ポーランドのボクサー』はいい小説集だ。ハルフォンのほかの作品も読んでみたいと思う。