これじゃスタイナーも浮かばれまい



 ジョージ・スタイナーが雑誌「ニューヨーカー」の定期的な執筆者で、少なからぬエッセイを同誌に寄稿したことはよく知られている。このたび翻訳された『「ニューヨーカー」のジョージ・スタイナー』(近代文藝社)の序文で、ロバート・ボイヤーズはつぎのように書いている。
 「ジョージ・スタイナーは一九六七年から一九九七年の間に百三十編以上のエッセーをニューヨーカー誌のために書いた。」
 スタイナーは、エドマンド・ウィルソンの「理想的な後継者」として、新旧の書籍を幅ひろく取り上げて論じたが、本書はそのなかから二十八編を精選して収録したものである。ブレヒトベケットボルヘスセリーヌら、二十世紀を代表する作家から、アリエスベンヤミンヴェイユシオランチョムスキーら、歴史家、哲学者たちに至るまで、『言語と沈黙』や『脱領域の知性』の読者ならおなじみのスタイナーらしい人選が目次に並んでいる。
 先頃、東京堂書店で一冊棚差しになっているのを見つけて購入し、ボイヤーズの序文を読み始めて唖然とした。何を言いたいのかわからん。スタイナーの翻訳書はときに難解でなくもないけれども、よく読めば意味が通らないということはなかった。だが、これは何度繰り返し読んでも意味不明なのである。たとえば、ブレヒトセリーヌ、マンらの作品にスタイナーは先入見を排して相対する、といった意味のことを述べたあとこう続く。( )内はわたしの感想。


 「スタイナーは先ずじっくり読み解くことからはじめ(ふんふん)、きわめて独創的な作家の場合にも文脈が重要だと考え(異議なし)、しばしば考えられているよりもとかく逃げを打つ傾向がある(なに、この「逃げを打つ」って?)。」


 あるいは、スタイナーのブレヒト論にたいしてブラックマーはこう言ったことになっている。
 「これはR・Pブラックマーがかつて言ったように「素人の形式張った談話」としての批評であるが……」
 「『素人の形式張った談話』としての批評」って、いったいどういう批評なのかしらん。ブラックマーや篠田一士が読むと卒倒するね。ほかに、こんなのもある。


 「彼の作品では再三再四、彼が見るものは全て可能性と、新たにスリルをあたえ、驚かせ、抑制する真の見込みに満ちている。」
 「『夜の言葉』(一九六七年の『言語と沈黙』から)のような初期のエッセーでは、彼は好きなものを何でも読む自由のためにわれわれが払う代価を訊く目的で当世のエロ本作者の「膣洗浄器牧歌」を研究した。」
 「ルーマニア系フランス人作家E・Mシオランの辛辣な、「碑文体の」簡潔性に対するスタイナーの抵抗のなかに、われわれはアンドレ・ジッドや、オスカー・ワイルドその他の金言的強請に見出されるはずの熱心な満足を知っている自称恋人の失望を聞く。」


 やれやれ。なにが悲しゅうてこんな支離滅裂な文章に付き合わねばならんのか。R・PブラックマーだのE・Mシオランだのといった中黒の表記にも違和感を覚えるが、その程度のことはもうどうでもよくなってしまった。
 固有名詞のでたらめさといったら枚挙に暇がない。レオナルド・スカシア(シャーシャ)、クララ・ゼトキン(ツェトキン)、ウイリアム・ガス(ギャス)、アイザック・バーベリ(イサク)、フェルナン・ブラウデル(ブローデル)、エリザベス・ケーブラー‐ロス(キューブラー=ロスまたはキューブラー・ロス)、チーコゥ・ブラーエ(3頁後ではティコーとなっているが、ティコが妥当)、ヴァージル(ウェルギリウス)、マルゲリート・ユルセナールは許せないでしょう、さすがに。
 バースの小説『書簡』(別の箇所では『手紙』)は『レターズ』とするべきだし、パーシグの『禅と自転車整備の技術』(別の箇所では『禅とオートバイ整備技術:価値の調査』)の邦訳は『禅とオートバイ修理技術』(以前は『息子と私とオートバイ』のタイトルで別の翻訳者によって出ていた)。ほかにも、ザミャーチンの『われわれ』(『われら』)だの、マイリンクの『ザ・ゴレム』(『ゴーレム』)だの、ナボコフの『キング・クイーン・悪漢』(『キング、クイーン、そしてジャック』)だの、レヴィ=ストロースの『血族の基本的構造』(『親族の基本構造』)だの、カネッティの『松明をわが耳に』(『耳の中の炬火』)だの、クレーの『アンゲルス・ノヴス』(『新しい天使』)だの、チェスタトンの『サーズディだった男』(!)だの、もう無茶苦茶で御座りまするがな。ブレヒトに『ミスター・パンチラ』なんて芝居があったかしらんと思ったら、どうやら『プンティラ旦那と下男マッティ(Herr Puntila und sein Knecht Matti)』のことらしい。セリーヌの『分割払いの死』(『なしくずしの死』)には妙にナットク。原題はMort a credit。
 要するに、知らないことは適当に訳しているだけで、調べる手間すらかけていないということだ。調べないといえば、ボルヘスの短篇「エル・アレフ」を論じた箇所の「語り手はこの宇宙の表現しがたい軸をカレー・ストリートのカーロス・アージェンチノの家の地下室の埃っぽい隅で十月の午後に見る」という有名な場面。むろんこれはガライ街のカルロス・アルヘンティーノの地下室であって、ボルヘス論を訳す際に当のボルヘスの邦訳すら参照しないのは、翻訳者の資格を疑わせるものだ(ボルヘスの『小説』とは『伝奇集』のことだろうし、『ツーロン、ウクバール、オルビス・テルティウス』は「トレーン、ウクバール〜」だし、「茶目っけた知識」だとか「トロツキーイズム」(スターリンイズムとかいうのかしらん)だとか、いやはや。このボルヘス論は『脱領域の知性』に収録されたものだろう。うちのどこかに埋もれているはずの本が出てきたら参照してみよう)。
 「図書新聞」が本書を6月2日号(第3064号)で逸早く書評に取り上げている。それ自体(原著にたいして)はまっとうな書評だが、訳文については一言もない(筆者は編集部の米田綱路氏)。広告とのからみという台所事情もあるのだろうが、翻訳についてまったく触れないのは書評としていかがなものか。
 わたしは序文を読んで、先を読む気が失せた。苛々しながら悪訳に付き合うよりはと思い、アマゾンでペーパーバックを注文した。霞の彼方にある正しい意味を推測しながら邦訳を読むより、辞書を引き引き英文を読むほうがまだ時間の節約にもなるだろう。訳者は工藤政司氏とクレジットされているが、みすず書房から出た工藤氏訳『G・スタイナー自伝』はこんなテイタラクでなかった。御年八十一歳の御高齢、おそらくどこかの大学生たちが分担して訳したものに名前を貸しただけだろう。それかあらぬか本書のあとがきは『G・スタイナー自伝』のあとがきをそっくり流用したものだ(目を疑ったが)。工藤氏以上に、こうした欠陥本を発売した出版社の罪は重い。昨年出た『師弟のまじわり』(岩波書店)の高田康成氏による融通無碍、ほれぼれする訳業を見た後だっただけに、そのぞんざいさがひときわ目立った*1


「ニューヨーカー」のジョージ・スタイナー

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George Steiner at The New Yorker (New Directions Paperbook)

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師弟のまじわり

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*1:『師弟のまじわり』Lessons of the Mastersは、 ボルヘスカルヴィーノも務めた例のハーヴァード大学ノートン記念講義を書籍化したもの。高田康成氏の訳文のさわりをちょっとだけ紹介しよう。《「マスター・クラス」、個人指導(チュートーリアル)、セミナーというものは、さらに講義でさえもが、ときとして心がぴんと張りつめる感覚を醸成する。親密さ、嫉妬、幻滅、これらが愛情と憎しみ、あるいは愛憎半ばする感情へと微妙に変化する。下世話に言えば、いやよいやよも好きのうち、つれない素ぶりで誘惑し、とでもなろうか。いずれもエロスのレパートリーとしてお馴染みのものである。「いままで恋をした人のなかで、唯一私にふさわしく思えたのは、あなただけだ」とアルキビアデスはソクラテスに向かって豪語したが、その理由は一つ、ソクラテスが、まさに正真の師にふさわしく、「この世で唯一私に羞恥心を起させた人」だったからだと告白する。》