注釈「《あ》って言ってごらん」



 山崎栄治の詩 「《あ》って言ってごらん」に出合ったのは数年前のことだ。古本屋の均一本の山のなかから掘り出した詩誌「同時代」(昭和39年、第18号)に載っていた。ご覧のように原詩は無垢と一種の終末観のイメージが綯い合わされた傑作である。一読、これをべつの文脈のなかに引用してある種の寓話のようなものをこしらえたい誘惑にかられた。すこし書き始めて、しかし、頓挫した。「べつの文脈」のイメージが未だ曖昧だったせいにちがいない。書きなずみ、打ち遣ってそのままになっていたが、先日、ふとしたはずみにPCのハードディスクのなかにその文反故を見つけ、書き継いでみたのが前回掲載したものである。
 岡のてっぺんの松の木を飲み込むような何ものかのイメージがわたしに具体物として到来し、それにつれて、少女ピッパの歌が思いがけず結合した。そのせいで全体としてアイロニカルな色調が強くなったと思う。
 山崎栄治の「《あ》って言ってごらん」については、吉原幸子が次のように書いている。


 「そういえば私も何かに山崎さんのことを書いたことがあって、「《あ》って言ってごらん」という作品を手がかりにした覚えがあります。あの詩は今も特に好きです。私たちがあなたの詩に触れて、あなたに連れられて旅先のあちこちを“見てしまった”あとなのになにか爽やかに救われるのは、あの素朴な生(いのち)への感動、小さなひとつひとつの存在との“出会いのよろこび”をあなたが知っておられるからなのでしょう。最終的に、微笑みがのこるのです。《あ》という発音を教えている若い母親、《あ》となかなか言えないこどもだけでなく、犬にもあじさいにも、それらを通して“世界全体”への微笑みかけが。(以下略)」*1


 「あ」は「あじさい」の「あ」。あいうえおの「あ」。ことばの、すなわちロゴスの太初の謂いでもあるだろう。「《あ》となかなか言えないこども」と吉原幸子がいうのは、「《あ》って言ってごらん」の繰り返しからそう捉えたのだろうが、わたしにはこの反復は一種のエコーのような感じに思われる。
 この詩のえがく情景には、「若い母親」といった日常的な現実(リアリティ)を超越した一種の神話的イメージが漂っている。「《あ》って言ってごらん」の繰り返しが喚起するイメージは、吉原幸子のいうような「“世界全体”への微笑みかけ」というには、あまりに不吉な、あるいはあまりに不穏なものだ。人類の終焉、世界の消滅ののちに、ロゴスの誕生をうながす天空からの呼びかけのようにわたしには思えるのである。

*1:原幸子「“微笑むひと”に」、『山崎榮治詩集』栞、沖積舎、1982