オンリー・コネクト――バッハマン、ツェラン、アメリー



 日がな一日のんべんだらりと過している。本を読み、映画を見、家事をし、また本を読む。その繰返しで一日が過ぎ、一週間が過ぎ、ひと月が過ぎる。時のたつのが早い。Time flies by. 時は翼をもつ。翼をもたないわたしは時に置き去りにされ呆然と立ちすくむ。


 「思ってもみないところで、思いがけない名を聞く」。わたしにも覚えがあることだが、これは長田弘の「錬金術としての読書」というエッセイの冒頭の一節だ(『本に語らせよ』)。
 長田弘が出遭った思いがけない名はインゲボルク・バッハマン。韓国映画『誰にでも秘密がある』(2004)で、チェ・ジウが本を読んでいる。それを見たイ・ビョンホンが声をかける。「インゲボルク・バッハマン?」。初めての出会いの場面――。
 韓国の若者がバッハマンを読んでいてもなんら不思議はないけれど、やはりちょっと虚を突かれるところがある。有村架純がバッハマンを読んでいたらどうだろう。ちょっとキュンとするかも。まあ、チェ・ジウ有村架純だからかもしれないけれど。
 長田弘は書いている。


 「バッハマンが不慮の死をとげたのは一九七三年。いくつかの忘れがたい詩と物語をのこしたきりのウィーンの詩人の名が、その名を知っている人ならば信じられるというふうにして、ソウルの映画の現在にさりげなくでてくるおどろき。」


 その本を好きな人ならきっと好きになる。あなたがどんな本を読んでいるか言ってごらん、あなたがどんな人間か言い当ててみせよう。


 バッハマンの短篇集『三十歳』の邦訳が出たのは1965年、白水社の「新しい世界の文学」シリーズの一冊としてだった。生野幸吉訳。前年には野崎孝訳のサリンジャーライ麦畑でつかまえて』が同シリーズで出ている。二冊目の邦訳、長篇小説『マリーナ』が1973年、これは晶文社の「女のロマネスク」シリーズの一冊だった。神品芳夫・神品友子訳。このシリーズではゼルダフィッツジェラルドの『こわれる』が青山南訳で出ている。そして30年後の2004年に『ジムルターン』の邦訳が出る。「バッハマンはいまも知られていないが、いまも忘れられていないのだ」と長田弘は書いている(2011年にはバッハマンの全詩集が中村朝子訳で青土社から出た)。
 『三十歳』はちょうど一年前に松永美穂による新訳が岩波文庫から出て読んだのだけれど、『ジムルターン』の邦訳が出ているのは知らなかった。Amazonで取り寄せる。こういう本は都心の大きな書店に行っても並んでいるかどうかわからない。『ジムルターン』は大羅志保子訳、鳥影社の「女の創造力」シリーズの一冊。バッハマンは「シリーズ」に縁が深い。
 まずは訳者あとがきに目をとおす。こういう箇所に目がとまる。


 「第五話のなかに、主人公エリーザベトが、フランス語の名前だが実はオーストリア出身でベルギーに住んでいる男性の『拷問について』というエッセイを読んだとき、トロッタが何を言おうとしていたのかを理解したという個所がある。」


 『ジムルターン』は短篇集で、第五話は「湖へ通じる三本の道」という集中もっとも長い作品。


 「そのエッセイを書いた当人のジャン・アメリーはこの個所を読み、『ジムルターン』について万感胸に満ちた書評を書き、バッハマンが埋葬される前日に手向けの一文を寄稿したばかりか、一九七八年十月十七日バッハマンの命日に、ザルツブルクで命を絶った。二人は直接会ったことはなく、純粋に文学を介しての交信であった。」


 『ジムルターン』は1972年に刊行されたバッハマン最後の作品集で、ドイツ批評界の大御所ライヒラニツキらに酷評されたが、読者に支持されたという。「本のなかに織り込まれていたかもしれない「遺言」を理解したのは、まさに読者自身であった」(訳者あとがき)。主人公エリーザベトはバッハマン自身が投影された人物で、拳銃で自殺する亡命者トロッタはセーヌ河に投身自殺する詩人パウル・ツェランがモデルとされる。バッハマンは22歳の初夏、シュルレアリスト画家エドガー・ジュネの家でツェランと知り合い恋におちた。


 ジャン・アメリー。「思ってもみないところで、思いがけない名」ではないけれど、バッハマンとアメリーとのつながりに一瞬虚を突かれ、すぐさま了解する。ああ、ジャン・アメリーか、と思う。
 W・G・ゼーバルトの批評集『空襲と文学』(鈴木仁子訳)に「夜鳥の眼で――ジャン・アメリーについて」がある。アメリーはプリーモ・レーヴィとおなじアウシュヴィッツの収容所にいたことがある(そして二人とも過酷な強制収容所生活を生き抜いたのちに自ら死を選ぶ)。ゼーバルトアメリーについてこう書いている。「彼は自身と自身のような人間に対して加えられた破壊に、戦後二十五年以上にもわたって、文字どおり頭を占拠されていた人間だったのである」と。そしてこうも書く。「いったん犠牲者になった者は、いつまでも犠牲者にとどまりつづける。『私は今なお宙づりになっている』とアメリーは書いている。『二十二年後の今なお肩の関節がはずれたまま、床の上にぶらさがっている』」と。
 アメリーが、肩の関節がはずれたまま宙づりになっているというのは、比喩であると同時に現実そのものでもある。後ろ手に縛られたまま鎖で床から1メートルの高さに宙づりにされ、アメリーの両肩は自分の重みで脱臼した。「拷問はラテン語の「脱臼させる」に由来する。なんという言語的明察だろう!」(アメリー『罪と罰の彼岸』)。
 バッハマンに話をもどせば、エリーザベトが(アメリーの)「拷問について」というエッセイを読んだあと、この小説はこう続けられる。


 「彼女はこの男性に手紙を書きたかったが、しかし彼に何を言ったらいいのか、どうして自分が彼に何か言いたいのか分からなかった。というのも明らかに彼は、恐ろしい出来事の表層を突き抜けるために多くの年月を必要としたらしかったからだ。そして僅かしか読み手がいないだろうと思われるこれらのページを理解するためには、ちょっとした一時的な驚愕を受け止めるのとは違った受容能力が必要だと思われた。なぜならこの男性は、精神の破壊という点で、何が自分に起こったのかを見つけだそうとし、また、どんなふうにして一人の人間が本当に変わってしまい、破壊された存在として生きつづけたのかを見つけだそうとしているからだった。」
 

 アメリーはこの箇所を読んで、百年の後に知己を得た思いがしたことだろう。そして、もしゼーバルトの文章を読むことができたとしたら、彼にたいしても。


本に語らせよ

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ジムルターン (女の創造力)

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空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

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