高原の秋運転手ギター弾く



 大西巨人に『春秋の花』という著作がある。古今の詩歌句あるいは小説や随筆の一節を掲出して短文を附したアンソロジーである。大岡信の『折々のうた』のようなスタイルの本ですね。なかに「よみ人しらず」の歌も古今集から選ばれているけれど、それとは少し意味合いの違う「失名氏」の作品もいくつか掲出されている。
 「失名氏」とは「筆者〔大西〕が作者名を失念していることの意」であり、こうした「失名氏」の作品が「私の脳裡にいろいろ存在する」とある。大西巨人の読者なら周知のことだけれども、常軌を逸した記憶力の持ち主である巨人氏は、たまたま目にした新聞の投稿欄の短歌や俳句までしっかり記憶にとどめてしまうのである。そうした詩文が『神聖喜劇』の東堂太郎のように、折に触れ、記憶の底からずるずると止めどなく溢れてくるのだから、本書をなすにあたって「記憶の中の詩文を言わば『アト・ランダム』に取り出すのであり、特別これを書くための調査・渉猟を試みるのではない」というのもさもありなん、である。
 本書に収められた「失名氏」に次の句がある。


  あぢさゐや身を持ちくづす庵(いほり)の主(ぬし)


 この句に附された文章がいろっぽくて、いい。


 「(略)二十一、二歳の私は、ある二十八、九歳の夫人に深い親愛をもって毎日のように逢っていた。夫人の家の庭隅に見事な一本(ひともと)の紫陽花があって、その花花の爛熟のころ、私は、ふと掲出句をくちずさんだ。「私も『身を持ちくづし』ましょうかねぇ。」とその必ず「身を持ちくづす」ことのないであろう綺麗な夫人が、ほほえんで静かに言った。言うまでもなく、私は、そのひとの手指を握ったことさえも、ついになかった。」


 その夫人は、『神聖喜劇』に出てくる「安芸」のひとではない。なにしろ、あちらは互いに「剃毛」する仲なのだから。艶福家ですねえ、巨人氏は。いや、『神聖喜劇』は小説ですけど。


 さて、最近読んだ小沢信男さんの『俳句世がたり』も、古今の俳句を掲出してそれに文章(短文というより、やや長めのエッセイ)を附した本で、おやと思ったのは次の句。


  高原の秋運転手ギター弾く


 作者は木村蕪城という人で「ホトトギス」系の俳人、のちに俳誌「夏爐」を主宰した、とある。昭和十六年(1941)の作で、当時二十八歳。信州八ヶ岳の麓の療養所で結核の身を養っていた頃の句。
 エッセイでは触れていないけれども、この句は小沢さんにとって元は「失名氏」の句だった。小沢さんの書簡体小説の傑作「わが忘れなば」に二つの俳句が出てくる


  高原の秋運転手ギターひく
  横顔の美しきひと金魚買う


 この句の作者についての探索が小説のプロットをなしていて、ほぼ一人語りの主人公が結核の胸郭成形術のために東大病院に入院していたときに人から聞いた句で、作者は信州信濃俳人だという。主人公は信州の高原療養所で一年ほど療養したあと、太宰治が情死した昭和二十三年(1948)に転院して手術を受けるのだけれども、このあたりは小沢さんの経歴と一致していて、『神聖喜劇』とおなじく主人公に自己を投影しているのですね。
 で、小説では句の作者はついにわからずじまいになるのだけれど、これは小沢さんの創作だろうとわたしは思っていた。ところがどっこい、小説発表の四半世紀後に「これは実は我が作で」という人が現れた。小沢さんの「高原の秋運転手」という文章からその顚末を簡単に紹介すると――。
 『長野県文学全集』第五巻に「わが忘れなば」が収録され、平成二年(1990)に刊行された。それを読んだ木村蕪城氏が「文芸家協会ニュース」の会員通信欄に随想を寄せられた。「たまたま先ごろ目にした小説に、自分の句を使って「無名な野郎の腰折れ」などと書いている、やれやれ。憮然とした文章であられた」と小沢さんは書いている。小沢さんはさっそくお詫びかたがた蕪城氏に手紙を送り、「文芸家協会ニュース」にもその経緯を書かれたという。
 ちなみに、この「高原の秋運転手」というエッセイは、『長野県文学全集』の版元でもある郷土出版社が刊行した『私たちの全仕事』(1999年・非売品)という700頁ほどの厚い本に収められている。もう十年ほどまえになろうか、古本屋でたまたま立ち読みしていてこの文章に出会って驚いたのなんの、即座に購入した。
 小沢さんは二つの俳句を手術中「呪文のように脳裏に唱えて危機を脱した」と書いている。「文芸は、まことにふしぎだ。偶然の一句が命の綱ともなる」と。だがそれにしても、
  横顔の美しきひと金魚買う
 この句の作者はいまだ不明である。いつかふいに「じつは」と名のり出る人があるやもしれない。ひょっとすると、二つの句を教えてくれた「商家の若隠居ふう」の人が作者だったのかもしれない、と小沢さんは書いているけれども。

春秋の花

春秋の花

俳句世がたり (岩波新書)

俳句世がたり (岩波新書)