猥褻鳥


 目をこらしてみたが、鳥の姿を認めることはできなかった。鳴き声だけだ。いつものように。とにかくこのようにして世界の一日分のねじが巻かれるのだ。
                    ――村上春樹ねじまき鳥クロニクル
                     
                                 
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その鳥の存在に最初に気づいたのが誰だったのかいまではさだかでない。それは一種の都市伝説のように人の口から口へと伝わっていった。というのはしかし確かではない。口から口へでなくツイッターフェイスブックといったソーシャルメディアでつぶやかれ瞬く間に拡散したといったほうがより事態の推移を正確に伝えているだろう。ツイッターにおけるごく初期のつぶやきによればその声は――当初は「声」と表現されていた――東京近郊で耳にされたという。ある寝苦しい盛夏の明け方どこからともなく聞えてきたその声を耳にしたある集合住宅の住人は隣に住む二十代後半と思われる人妻の発した声かと思った。だがそれにしては声が明瞭に過ぎはしまいか。本来ならばもう少しくぐもった声であるはずだが明らかに開放的といってよい発生法とオペラのアリアにも比すべきゆたかな声量が訝しい。しかもそれは隣の部屋というよりむしろ窓の外から聞えてくるような気がする。しばらく耳をすませていた住人は――言い忘れたが住人は都内の私立大学に籍を置く二十代前半の男であるとされている――隣の部屋を慮りながら窓をそっと開けた。窓外には鬱蒼と繁る樹林が薄明のなかに遠望されどうやら声はそのあたりから発して木々によって増幅されて聞えてきたものらしい。不可思議な現象にしばらく耳をかたむけていたがやがて声は次第に途絶えて聞えなくなったという。これはむろんツイッターのつぶやきそのものではなくそれが幾たびもリツイートされそこに尾鰭が加わって出来上がった一種の物語である。ある者によれば発祥は東京都下の多摩地区だという。またある者によればそれは多摩地区ではなく埼玉であり別の者によれば茨城だとされている。それが伝聞の不確かさによるものなのかあるいはほぼ時を同じくして幾つかの場所でその声が確認されたものなのかいまとなっては断定することはできない。いずれにせよそれはインターネットによって一気に津々浦々に広がった。どこからともなくその声が聞えてきたというだけなら一過性の話題として速やかに忘れ去られたにちがいない。それが国内はおろか海外にまで波及するほどの広がりを見せるとは……いや、先走るのは慎もう。ツイッター上のつぶやきが増幅されて広がってゆくティッピングポイントはもう一つのつぶやきの出現に求められよう。最初のつぶやきをめぐる応答がひとしきり賑わいを見せやがて収束するかと思われたころ新たな証言――いまでは第二の発見者と呼ばれている――が出現した。当の人物は東京郊外に住む三十代の男性システムエンジニアとされているが(多摩地区に居住するのは彼であるとする説を唱える者もいる)彼もまた明け方どこからともなく聞えてくる声を耳にしてあるいはこれがSNSで話題となった例の声かと思いすぐにベランダの窓を開けたという。システムエンジニアの居住するマンションから至近距離にある公園の樹木からその声は聞えてきた。梢が枝葉をふるわせながらすすり泣いているようでしばらく耳を傾けていると梢のあいだから一羽の鳥が飛び立って朝ぼらけのなかを空のかなたへ消えてゆきそれとともに声も途絶えたと彼はツイートしている。その鳥と件の声との関連についてシステムエンジニアは断定を憚ったがこの第二の発見者の証言は事態を煽り立てるに充分の効果を上げた。彼はツイッターでつぶやくとともにある動画共有サイトに動画を投稿した。スマートフォンによって咄嗟に録画されたというその動画には妙なる声を発する樹木と空のかなたに羽搏いてゆく一羽の鳥がたしかに映し出されていたからである。サイトに動画が投稿された数時間後にはアクセス数はたちまち四桁に達しツイッターフェイスブックへの投稿がそれに拍車をかけた。映像から判断するに件の声はこの鳥の鳴き声にほかならない。どこかのうちに飼われていた九官鳥かインコが逃げ出したのにちがいない。そうしたつぶやきがインターネット上に溢れるなか事態はさらに大きく展開する。鳥たちの映像が堰を切ったように動画サイトに次々とアップロードされたのである。


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東京郊外といわず全国各地から投稿された鳥たちの映像が動画サイトに溢れ海外からの投稿もなかには数件雑じっていた。ここで急いで付け加えておかねばならないのは当初九官鳥もしくはインコかと推測されたのはその特徴的な鳴き声に原因があり人々の関心がこれほどまでに昂まることになったのもまたその鳴き声が最大の要因にほかならないということである。二十代後半の人妻の発した声かと思ったと第一発見者がツイッターでつぶやいたごとくそれは閨房における媾合の際の女性の喘ぎ声に酷似した鳴き声であった。鳴き声には幾つかのヴァリエーションが認められた。「あっはーん うふん いやん」と悩まし気に鳴く声。「いやんいやんいやん」と身悶えするように鳴く声。ひときわ高く「あっあっあっ」と断続的に感極まったように鳴く声。個体によって鳴き方が異なる場合もあれば同一個体が複数の鳴き方を奏でる場合もあった。押し殺した声で溜息のように「ああ うう はあ」と繰り返す鳥もいれば「いやいやいやっ」と咽び泣くような声が次第に「いい いい いい」と甘やかな声に変化しついに「あっあっあっ」と高まって果てる高度な変奏を披露する鳥もいた。最初の投稿から旬日を経ずして動画サイトのアクセス数は百万回に達した。各メディアもさすがにこの事態を無視もしくは傍観し続けるわけにもゆかず最初は新聞がインターネット上に現れた未確認飛行物体とそれが巻き起した事態について鳴き声にふれることなくささやかな報道を行なった。ついでテレビがニュース番組で取り上げてネット上の動画を引用しつつその特徴的な鳴き声に関心が集まっているとキャスターがコメントしたが肝腎の鳴き声にピー音がかぶせられていたために意味不明の報道となり多数の苦情が視聴者から寄せられることとなった。インターネットから発した鳥をめぐる狂騒は日に日に昂まってゆくかに見えたが押っ取り刀で取り上げた週刊誌の記事によってこの騒動はあっけない終焉を迎えた。鳥かどうかさえ識別のつかないぼやけた映像は論外としても識別可能な個体のすべては世界各地に生息する鳥たち――ヒバリ、ミソサザイムクドリ、ウタツグミ、アカゲラ、ムネアカヒワ、カラフトムシクイ、エトセトラエトセトラ――でありどだいこのような鳴き声をたてる鳥など世界中を見渡しても存在しない。おおかた鳥の映像とアダルトビデオの音声とをコラージュしたトリコラで世間を騒がせて喜ぶ愉快犯の仕業だろう。鳥類学者が厳かにそう断言したからである。こうして幻の鳥をめぐる騒動は一件落着したかに見えたが事態は思いがけない方向へと展開する。


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その年の夏は例年に増して猛暑の日が続いた。都心でも連日体温を上回る気温が観測され東京近郊では摂氏四〇度を超える高温が幾度も記録された。人は天変地異の起こる前触れではないかと噂し合いそれに呼応するかのごとく列島各地で大小の地震が頻発し南国では火山が噴火して市中を灰色に染めた。そして立て続けに襲った颱風による豪雨が一切合財を洗い流して列島に秋色が訪れたころ次第に色づき始めた武蔵野台地の樹林にあの声が戻ってきた。俗に三多摩と呼ばれる関東平野の西域には住宅地に隣接して鬱蒼と繁る雑木林が其処彼処に点在してかつての武蔵野の面影を残している。そうした雑木林の一つがある日の明け方もの思わし気な歔欷の声を洩らし夜がしらじらと明けるころにはその声はぴたっと鳴き止んだ。それからというもの声はたちまち近隣の樹林に伝播して武蔵野台地の木という木が一斉に悩ましげな声を発し始めた。もはや誰かの作為的な悪戯とも思われず鳴き声を発する樹木が存在するのでなければ鳥もしくは鳥に類する生物の発するさえずりの一種といわねばならないと鳥類学者が新聞でコメントを述べた。バードウォッチャーたちが双眼鏡や望遠鏡を駆使して観測したが鳥の姿は枝葉に紛れて一向に確認できなかった。インターネットの動画サイトに連日投稿されたすすり泣く樹林の映像には木を見て鳥を見ずとコメントが書き込まれた。やがて小学生たちのあいだに鳥の鳴き声の真似が流行し始めた。ランドセルを背負った児童たちが登下校の際に声をそろえて「あっはーん うっふーん」と唱和する声がいたるところで聞こえ見かねた大人たちの苦情が役所や市町村の教育委員会さらには新聞の投書欄や政党の市議団事務所に殺到した。なりゆきを静観していた某テレビ局のワイドショーがおそるおそる取り上げると視聴率が一挙に二倍に跳ね上がり各局もそれに追随して事態に拍車をかけた。深夜の討論番組では各界の識者たちが侃々諤々の議論を繰り広げた。児童に悪影響を及ぼす害鳥は即刻駆除してもらいたいと教育評論家が発言するとヒバリやウグイスの鳴き声はよくてこの鳥の鳴き声は悪いというのは人間中心主義的思考でありいまだかつて鳴き声によって害鳥とされた鳥は存在しないと動物保護団体のメンバーが反論して駆除には断固反対すると表明した。海外の学術団体やメディアも日本に突如出現した幻の鳥に大きな関心を示した。英国王立鳥類保護協会はこの鳥を数羽捕獲して生きたまま英国へ送るよう日本政府に申し入れ(可能なら雌雄ひと番いに加え鳴き声のヴァリエーション数に相当する個体数を希望すると付け加えた)ニューヨークのある雑誌はこのunidentified mysterious flying creature(未確認飛行生物)をThe obscene bird(猥褻鳥)と名づけGODZILLAを引合いに出して原発事故による突然変異の可能性を示唆した。幻の鳥を一目見ようと近隣諸国の観光客がツァーを組んでぞろぞろ押しかけたが姿を見ることはかなわず鳥を図案化したTシャツを爆買いして帰っていった。鳥たちは東京近郊から徐々に都心へ向かって行動範囲を広げてゆくかのように思われた。新宿御苑明治神宮外苑や日比谷公園の樹林で次々と鳴き声が確認された。インターネット上では鳥たちの次なるターゲットが取り沙汰され鳥たちは皇居をめざすと書き込む者が現われた。吹上御苑で鳥たちが一斉に乱交のごとく卑猥な鳴き声で高らかにさえずる光景を想像した者たちは恐れおののいた。彼らはかくなる事態は断固阻止せねばならぬと息巻いて丸の内のオフィスビル街を街宣車で行進し大音量のスピーカーで鳥の即時撲滅を訴えた。事態の沈静化を図ろうとした環境省が捕獲に乗り出すと発表したがいかなる手段で捕獲するかについては識者による委員会の設置を待って検討すると述べるにとどまった。千鳥ヶ淵から国会議事堂さらに桜田門の周辺はにわかに騒然とし始めた。街宣車に乗った迷彩服を着た男たちと鳥を護れと大書したプラカードを掲げた動物保護団体や一般市民さらには鳥は天から遣わされた愛の象徴であると唱える宗教団体のデモ隊らが入り乱れて国会前で小競り合いを繰り広げた。街宣車から降り立った男が壇上に立ちこのようなおぞましい生き物を不法侵入させぬよう皇居の周囲に高い壁を築けと叫んだ。日を追ってデモンストレーションに加わる人々の数は膨れ上がり国会周辺はいまや一触即発の危機を孕むかの様相を呈した。 


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あの日を境に鳥の鳴き声がぱったりと途絶えた理由についてはSNSで様々な憶測が乱れ飛んだ。あの日の明け方たしかに銃声を聞いたと誰かがツイートした。それに呼応して「猥褻鳥は私だ」というツイートが書き込まれリツイートは数万件にのぼった。撃たれた鳥が最後に「いくっ」と一声高く鳴いたというツイートが一瞬に拡散してネット上を駆け巡った。鳥を追悼する数万人の市民たちのデモ行進が皇居を取り巻いたが狂躁の日々が過ぎると日本国中をあれほど騒然とさせた出来事もやがて何事もなかったかのように忘れ去られ鳥の話題が人々の口の端にのぼることもいつやら絶えて久しくなった。…………私は書きかけのパソコンを閉じて立ち上がり背伸びをした。夜が明けようとしていた。どこからか「いやいやいやっ」と忍び泣くような声が聞えたような気がした。窓を開けるとうっすらと朝靄の立ち込めた薄明のなかに樹林が見えた。目をこらしてみたが鳥の姿を認めることはできなかった。
                                (11月29日脱稿)