さよなら小沢信男さん ――あわや一年の更新

 

 このところようやく暖かい日がつづくようになり厚手のコートを薄いブルゾンに変えて外出している。よんどころない「要」があっての外出である。

「今年は三月に入って四日と十二日と二度も大雪が降ったりしたせいか、由美がホクホクやって来て、ぼくを斎藤さんちのモクレンを見におびき出したのは三月十九日だった」

 1969年の3月19日、「あわや半世紀」も前のというか、すでに半世紀以上も昔の、これはお話であって、毎年というわけではないけれど、この時期になると時々なつかしくなって『白鳥の歌なんか聞えない』を読みかえしたりする。

「金魚がすごく元気に泳ぎだしたんだよ」と春の到来を告げる幼稚園児の甥っ子が、天井まで届く薫くんの本棚を見上げて、広田先生に尋ねる三四郎のように「これ、みんな読んだの?」と素朴な質問を発する。いっぽう、小沢さんのおじいさんの小さな図書館のような薄暗い書庫の本棚につまった世界各国の原書には、すべてその国の言語で書き込みがしてあって、しかし、当の老人は夕陽が沈むようにいまや命終の時をむかえつつある。肉体は悲し、万巻の書は読まれたり。

 この知性の権化のような老人は、当時まだ健在だった小林秀雄林達夫に擬せられたりもしたけれど、読み返してみると、もうすぐ八十歳になるという設定で、五十年後のいまではそれほどの高齢というわけではない(いまならさしづめ沓掛良彦あたりがイメージに近いか。いや、それともむしろ庄司薫本人か)。小林秀雄が亡くなったのが1983年、八十一歳、林達夫1984年、享年八十七だった。1969年時点での男の平均寿命はまだ七十に達していなかったのだから、もうすぐ八十歳は当時としては十分高齢といっていいだろう。

 さて、もうひとりの「小沢さんのおじいさん」が先頃、桃の節句に亡くなった。もう三月ほどで九十四歳になるはずだった長老小沢信男さん。訃報に接したあと、晩年の著書『俳句世がたり』を鞄に入れて外出し、在りし日の小沢さんを偲んだ。

 老境にいたって小沢さんの文章は融通無碍、ますます自在になっていったように思われる。『俳句世がたり』は敬体(ですます調)で書かれているので、よりいっそう親密な調子が伝わってきて、直接話しかけられているような錯覚にとらわれる。小沢さんについては、かつてここでも「わが忘れなば――小沢信男花田清輝」と題して書いたことがある。

qfwfq.hatenablog.com

 

 じつはこの文章がきっかけで小沢さんと親しくお付き合いをさせていただくことになったのだった。

 わたしが編輯していた文庫の解説文の執筆をお願いするため小沢さんに電話をかけたのだが、そのついでに、じつは小沢さんが花田清輝に献呈された本を古本屋で購入しまして、という話をしたのだった。その経緯については、小沢さん御自身が「週刊朝日」に「『わが忘れなば』七千円!」と題して軽妙な筆致でお書きになっている(『本の立ち話』所収)。

 それ以来、何度かお目にかかったり、手紙やメールで励ましをいただいたりと、なにくれと気にかけてくださった。「新日文」の編集をしていたときに大西巨人の自宅へ『神聖喜劇』の連載原稿を受け取りに行った話とか、大西巨人井上光晴の話とか、それらはたしか谷中のお宅にうかがったときに聞いたような記憶がある。御自宅には二度ほどお邪魔した。書斎の机にデスクトップパソコンが鎮座しているのが印象的だった。

 ここ数年、酸素ボンベを装着するようになられてからはお目にかかったことはないけれど、それ以前はじつに健脚で、どこへでもすたすたと歩いて行かれた。『東京骨灰紀行』はこの健脚あってこそと思ったものだ。時折りこのブログも読んでくださっていたらしく、辻征夫について書いたときにはメールでお褒めの言葉をいただいて恐縮した。

qfwfq.hatenablog.com

 なにくわぬ顔で百歳ぐらいまでお元気で執筆されるのだろうと思っていた。『俳句世がたり』にまとめられた「みすず」の連載にしても、最後まで文章にいささかもゆるみはなかった。享年九十三とは、若すぎる。

 

本の立ち話

本の立ち話

  • 作者:小沢 信男
  • 発売日: 2011/03/01
  • メディア: 単行本
 
東京骨灰紀行 (ちくま文庫)

東京骨灰紀行 (ちくま文庫)

  • 作者:小沢 信男
  • 発売日: 2012/10/10
  • メディア: 文庫
 
俳句世がたり (岩波新書)

俳句世がたり (岩波新書)

  • 作者:小沢 信男
  • 発売日: 2016/12/21
  • メディア: 新書