ちいさな本棚――(その1 詩集の棚)



 クラフト・エヴィング商會に『おかしな本棚』(2011年、朝日新聞出版)という本がある。『らくだこぶ書房21世紀古書目録』(2000年、筑摩書房)とともにわたしの大好きな本についての本。『らくだこぶ』については、ずいぶん昔になるけれどネットで書評を書いたことがある。いずれここに再掲しよう。『おかしな本棚』は「本棚の本、本棚をめぐる、本棚のあれこれを考える本」(まえがき)で、「金曜日の夜の本棚」だとか「美しく年老いた本棚」だとか「波打ち際の本棚」だとか「頭を真っ白にするための本棚」だとか、テーマごとに十数冊の本が美しいカラー写真(背と表紙が少々)とエッセイで掲載されている。「旅する本棚」は、なんとなく想像がつきそうだけれど(実際は想像したのと少し違っていた)、「蜂の巣のある本棚」なんて「なにそれ?」って猛烈に興味がわく。こういう本を読む(見る)と真似をしてみたくなるのがわたしの悪い癖で、ちょっとためしにやってみた。
「ちいさな本棚」。今回は貧しい書架から詩集をあれこれ抜き出してみた。



 まず左端の化粧函入りの二冊のセット。『三好豊一郎詩集(1946〜1971)』。1975年2月15日発行、サンリオ刊。限定500部で、奥付に「番外七五」と朱書きされている。定価4000円。もちろん消費税なんてない頃の本。国立の古書店で定価よりいくらか高い値段で買った記憶がある。函の背に絵具の滴のような滲みが一面に付着している。前の持ち主がつけたものだろう。「美しく年老いた本棚」に「新しい本にはとうてい真似のできない(略)微妙な色あいを芽生えさせる」とあるように、味のある汚れ。琳派の絵の「たらし込み」を思わせなくもない。判型はけっこう大きい。天地は奥付の表記に従うと「10ポ七十八倍」。1ポ(ポイント)は約0.35ミリなので、3.5×78で273ミリになる。左右は133ミリ。造本 杉浦康平
 1は「囚人」「荒地詩集から」「小さな証し」を収める。2は二分冊になっており、「Spellbound」「トランペット」「未完詩集」が一冊(いずれもフランス装)、もう一冊は「詩画集《黙示》」で、右に城所祥のモノクロ版画、左に詩を印刷した厚紙を二つ折りにした折本が12葉、帙に収められている。極端に縦長の判型だが、詩は上部に印刷され、下3分の2は余白である。1、2にそれぞれ詩人たちが寄稿した栞が附く。いかにも杉浦康平らしい見事なオブジェ。なまなかな詩ではこの造本に負けてしまうだろう。


 その隣は『渡辺武信詩集 首都の休暇・抄』。1969年10月25日発行、思潮社刊。限定500部のうち155。定価2000円。周知のように52枚プラスJOKERの53枚のトランプに印刷された詩篇が2セット函に入っている。デザイン 高田修地、トランプ裏絵 石岡瑛子。JOKERにはそれぞれ「これらの詩篇を/凶区とそのプレイメイツに捧げる」「明日があるとおもえなければ/子供ら夜になっても遊びつづけろ! 堀川正美」と印刷されている。
「きみの掌の中でぬるくなったコーヒーの中に/融けきれず沈んでいる角砂糖みたいに/融けきれないぼくたちの欲望は ここからどこに向い/どこに到達するというのか」
 60年代だなあ、と思う。「世界はいつも少しひろすぎてさわやかに寒い」


 隣の薄い詩集は『北村太郎 書下し作品集』。1976年10月25日発行、矢立出版刊。定価500円。「星座」第2号とある。第1号は不明、裏袖に続刊として、石原吉郎井上光晴、会田綱雄、清水哲男、吉原幸子の名が挙がり、石原・井上は既刊とされている。わたしが持っているのはこの一冊のみ。装幀 司修。32頁に六篇の詩とエッセイ「少年時」を収める。
 「鳥が/悠々と空に舞いながら/ふっと静止するときがある/そのとき/鳥は/最も激しいことを考えているのだ」(「直喩のように」)
 この詩を読んだのは書評紙で文学欄を担当していたときだ。一読、感銘を受けた。詩人に書評を依頼したときの序でだったかに、感想を書いた手紙を添えた。謝辞の書状が届いたが、もう手元に残っていない。


 真ん中の正方形のような判型の詩集は荒川洋治の『娼婦論』。表紙中央に書名が7ポゴシックで入っている。1971年9月30日発行、檸檬屋刊。定価470円。表紙をめくると1頁目の同じ位置に書名が7ポか6ポの明朝体で入っている。3頁の同じ位置に「荒川洋治詩集」という文字が、そして5頁に「1970」という数字が、もうこれ以上小さくならないといったふうに5ポぐらいで入り、文字は判別も困難なほどかすれている。本文はタイプ印刷、28頁の平綴じ。グラシン紙掛けの薄い瀟洒な詩集。わたしにとって、詩集の姿は畢竟、これに尽きる。装丁者の記載はない。何部発行されたかは不明。おそらく150部程度ではないだろうか。大学2年のとき、三ノ宮の地下街にあったコーベブックスで買ったような朧げな記憶がある。あるいは、高架下のイカロス書房でだったか。いずれの書店もいまはない。
 『娼婦論』は刊行の翌年、早稲田大学文学部文芸科の卒業論文として提出され、平岡篤頼教授の推薦で小野梓芸術賞を受賞した。日本刀の鍛え肌をおもわせる繊細に研ぎ澄まされた言語感覚。現行の『娼婦論』は詩篇の順序を入れ替え、推敲が施され、「数理のしかばね」を「雅語心中」と改題している。


 その右は高祖保の『雪』。1942年5月4日発行、文藝汎論社刊。定価3円。限定150部。装丁者の記載はない。この詩集については、以前ここで触れたことがある*1。扉に蔵書印、裏の見返しに所蔵者に贈る「島を守りて玉と砕る」の墨書がある。元の持ち主は出征したのかもしれない。高祖保については、『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』(2008年)、評伝『念ふ鳥 詩人高祖保』(外村彰著、2009年)、『高祖保随筆集 庭柯のうぐひす』(2014年)と龜鳴屋が精力的に刊行を続けている。


 その隣は橋本真理『幽明婚』。1974年1月16日発行、深夜叢書社刊。定価1800円。限定500部のうち197。著者自装。表紙は金地にアールヌーボー風の細密なイラスト。扉にも数点の著者による銅版画を収める。この詩人の名を知ったのは73年10月に創刊された「季刊俳句」という雑誌でだった。ここに力の籠った「渡辺白泉論」を発表した未知の詩人にわたしは注目した。翌年に刊行された詩集をどこで買ったかは記憶にない。
 「季刊俳句」は堀井春一郎責任編集、中央書院発行、B5判より左右がやや短い変型の大判で表紙はつげ義春の絵。定価1000円という当時としては高価な雑誌だった。吉岡実の詩、葛原妙子の短歌、中井英夫のエッセイ、須永朝彦の小説、そして塚本邦雄五木寛之の対談といったふうに俳句にとどまらぬ内容は、編集協力に名が上がっている斎藤慎爾の差配によるものだろう。ちなみに第2号に石井辰彦の短歌「至誠の海」、藤原月彦の俳句「王権神授説」、第3号に長岡裕一郎の俳句「赤色鱗粉図」が掲載されている。わたしの手元にあるのは3号までだが、渡辺白泉論と、2号の西東三鬼論、3号の富澤赤黄男論(「虚空の聖餐」の題で連載された)を収録した橋本真理の評論集『螺旋と沈黙』(1978年、大和書房)には、「季刊俳句」掲載の評論はほかにないので、3号で途絶したのかもしれない。
 橋本真理の第2詩集『羞明(フォトフォビア)』(思潮社)は2005年に出た。わたしはその刊行を知らず、2008年に古書店で求めた。詩集にまつわる奇譚を「カエサルのものはカエサルへ」と題して、以前ここに書いた*2。橋本真理も「現代詩手帖」(2012年7月号)に「宛名のない葉書」と題して書いている。橋本真理さんとは以降、数年にわたって書簡をかわした。


 右端は井上詠『大和島根遙か』1981年2月28日発行、風人社刊。定価2800円。限定270部(特装本20部)のうち261。耳つきの手漉き和紙80頁に十篇の詩を正字正仮名で収める。詠は「ながむ」と訓む。英文学者井上義夫の別名である。D.H.ロレンスの研究はいうに及ばないが、『村上春樹と日本の「記憶」』(1999年、新潮社)は村上春樹論の白眉。先頃読んだ小島基洋村上春樹と《鎮魂の詩学》』(2017年、青土社)に同書を評して「本書は村上春樹研究史において、読みの確かさと叙述の美しさにおいて群を抜いている」(第三章注5)とあり、わが意を得た思いがした。この詩集は著者の「事実上の処女詩集」で、関川左木夫の厚情により出版されたと後記にある。折口信夫に通じる、古代の神話を物語るかのような散文詩


おかしな本棚

おかしな本棚

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*2:id:qfwfq:20090111