わが忘れなば――小沢信男と花田清輝


 小沢信男『通り過ぎた人々』(みすず書房)を読む。小沢さんが新日本文学会で出会った人々との交遊を綴ったエッセイ。見出しに掲げられた十八人の文筆家たちはすべて鬼籍に入った人たちで、そういった意味で「いまは亡き新日本文学会への私なりの追悼記」(あとがき)でもある。とはいえ、津野海太郎が「現代日本文学全集の背表紙が、ずらぁと並んだようだった」と述懐する「綺羅星のごとき顔ぶれ」(同)は背景に退いて(井上光晴富士正晴藤田省三ら、著名な作家、学者も見出しに登場するが)、多くはあまり馴染みのない人たちについて語られているのだけれども、以前このエッセイが「みすず」に連載されていたときに読んだ坪内祐三が「本の雑誌」だったかで驚いていたように、菊池章一荒木道子と夫婦だった、つまり、荒木一郎の父親だった、というような事実もさりげなく語られていて、興趣は尽きない。
 「綺羅星のごとき顔ぶれ」とは、中野重治佐多稲子花田清輝安部公房長谷川四郎大西巨人といったいずれも私の愛読する文人たちで、傍役として本書のそこかしこに印象的に登場する。かれら以外にも、当の小沢信男を始め「綺羅」とは言いかねるけれども野呂重雄、川崎彰彦ら、新日文には私の愛読する作家が多い。
 私が学生の頃もっとも愛読した批評家が花田清輝で、小沢信男を読んだのも花田が絶賛していたからだったと思う。花田は一九五三年に「早稲田大学新聞」に発表した「ノスタルジア」というエッセイで、こう書いている。


 「昨年、ぼくは、『江古田文学』八月号で、小沢信男という未知の作家の『新東京感傷散歩』という作品を読んだが、面白かったねえ。ここらあたりから、新しい時代がはじまるのだと思って、すっかり感動してしまった。」


 むろんこの文章を初出時に読んだわけではなく、これを収録した評論集『さちゅりこん』(五六)を収めた花田清輝著作集で読んだのだろう。この未来社版著作集も最初は函入りだったが(いまでも古本屋ではこの刊本を時折り見かける)、私の学生時代にはすでに函なしのカバー装になっていた。しかし、まあ、そんなことはどうでもいい(と花田ならいうだろう)。「江古田文学」は小沢信男が所属していた日大藝術学部の学生たちによる同人誌で、花田のこの批評文がきっかけで小沢は新日文に入会することになる。花田はその五年後に(私がのちに在籍することになる)書評新聞に発表したエッセイ「新人診断」(のち「夏炉冬扇」と改題)で、当時の新進小説家、大江健三郎開高健石原慎太郎らをなで斬りにし、返す刀で吉本隆明を転向ファシストと決めつけて、これがきっかけで花田・吉本論争を引き起こすことになるのだけれども、唯一、小沢信男の小説「東京落日譜」のみは、空襲でほろびた東京の姿を当時の中学生の眼であざやかにとらえたと高く評価し、その「若々しく、するどい知性」を称賛している。
 小沢信男は、「新東京感傷散歩」や「徽章と靴―東京落日譜―」などを収めた第一創作集『わが忘れなば』を六五年に晶文社より刊行する。本書『通り過ぎた人々』によれば、武井昭夫を介して当時晶文社を創業したばかりの小野二郎に会い、刊行を即決したのだという。小野二郎は、三笠宮に仕えた宮内官を父にもつ「いいとこの子弟」で、当時、明治大学助教授、待ち合せの喫茶店に着流しで現れたという。ちなみに、晶文社で雑誌「宝島」の編集に携わり、のちに晶文社から著書も出すことになる高平哲郎小野二郎の義理の弟で、たしか蓮實重彦小野二郎の縁戚にあたるはずだが、(再び)まあ、そんなことは、どうでもいい。
 この『わが忘れなば』を数年前に某古書店で買った。花田清輝の旧蔵本がまとまって出たときで、小沢信男の花田宛の署名と花田自身による書込みがある、との触込みだった。花田の書架に鎮座していた、あるじの書込みのある本といわれれば、多少無理をしても買わねばなるまい。で、懐と相談しながら、見返しに「花田清輝様恵存 小沢信男」と署名の入った『わが忘れなば』を、えいやっと入手した。調べてみると、書込みというのは鉛筆による傍線で、「廬生都にゆく」という小説にのみ、集中している。なるほど、こういう箇所に花田は反応したのだな、と、なにやら舞台裏を覗き見たような気分。大枚はたいても損はない。
 「廬生都にゆく」は、小沢が五八年に「新日本文学」に発表した小説で、当時、花田はこれを読んでいたはずだが、再読して傍線まで引いたのはよほど印象深く受け取ったのにちがいない。題名からも分かるとおり、これは「邯鄲の夢」で知られる『枕中記』の廬生を主人公にした創作で、花田好みの題材ではある。それかあらぬか(というのも花田愛用のフレーズ)、のちに花田はコラムでこの小説「廬生都にゆく」を取り上げて、みたび小沢を絶賛する。雑誌「文芸」一九七二年三月号、連載「一頁時評」の「黄粱一炊の夢」でのこと。


 「小沢信男の短篇のすばらしさは、この波瀾のない隠遁の人生を、やはり、黄粱一炊の夢として、あざやかにとらえている点にある。飯の炊きあがらないうちに、五十年間の立身出世の夢がみられるなら、同様に、すっかり、飯の炊きあがるまでに、あと五十年間の隠遁の夢がみられないはずはない、というのが、かれの論理なのだ。こういう短篇は誰にでも書けない。ここまで書いただけでも、大したものだ。もっとも栄達篇隠遁篇の二本立て計百年間の夢を、一気に見とおしてしまったあとの廬生の人生については、小沢信男は、口を閉ざしている。たぶん、人生は長く、芸術は短し、とおもったからであろう。」


 たしかに「廬生都にゆく」のこういう箇所――「五十年間を飯が炊きあがらないうちに夢に見られるなら、すっかり炊きあがるまでにあと五十年を追加するぐらい造作もないだろう」「栄達篇隠遁篇の二本立て計百年間の夢を一気に見通してしまったのである」――には、花田清輝の手でしっかりと傍線が引かれていた。
 小沢信男は「いまさら綺羅星で飾ってみてもなんになろう」と、本書での花田清輝への追悼は慎んでいるけれども、花田が亡くなった一九七三年師走の某日(命日は九月二十三日)、神楽坂の日本出版クラブで行われた追悼の集まりに、学生の私はのこのこと出向いていった。右を見ても左を見ても錚々たる文学者ばかりで、一般の参加者はほとんどいなかった。あのなかにおそらく小沢信男もいたのだろう。
 花田が死んだとき、私は追悼の一文をしたためて、ある雑誌に投稿した。その文章は読者欄に掲載され、版元から若干の謝礼が送られてきた。花田の死後刊行された花田清輝全集別巻の文献目録に、多くの作家たちにまじって私の名も記されている。一本のささやかな献花のように記載された自分の名前を見ると、あの日追悼の集会に紛れ込んだ場違いの学生の姿が、気恥かしく、そして懐かしく、思い出されるのである。



通り過ぎた人々

通り過ぎた人々