追悼河野裕子


 先月12日、歌人河野裕子さんが亡くなった。
 河野裕子さんと会ったのは三十年以上も前で、そのことは何年か前に書いたことがある(id:qfwfq:20051120)。それ以降会う機会はなかったが、九年ほど前、原稿を依頼したおりに電話ですこし話をした。河野さんが病いをえて手術をされた半年ほど後のことだった。
 先月、河野さんの子息から手紙が届いた。かれの営む出版社で出す河野さんの本に、わたしが依頼した原稿を再録したいという文面だった。承諾する旨の返信にわたしは「おかあさまはお元気でしょうか」と書き添えた。数年前に病いが再発し闘病中であることに聞き及んでいたからだ。その夜、帰宅したわたしは、夕刊で河野さんが亡くなったことを知った。思いがけぬ出来事に動揺し、皮肉な暗合にためいきをついた。わたしと幾つもはなれていない年齢で、歌人としてこれから円熟をむかえるという時だっただけに無念のおもいが強くのこった。


 河野さんに『日付のある歌』(本阿弥書店・2002年)という歌集がある。歌誌「歌壇」に2000年2月号から翌2001年1月号まで連載されたものをまとめた歌集で、歌には日付と詞書が附されている。
 9月8日にこういう歌がある。「九月八日 久しぶりの雨  雨、夕方やむ。今夜も永田と櫂と夜の散歩」の詞書で、
 眠らざる子を眠らすと出でて来し夜の稲田の昨夜(きぞ)より匂ふ
  (略)
 この世にはあなたとの時間がまだ少し残つてゐてほしい子を押し歩む
 倖せな一生(ひとよ)なりしとまた思ふあなたと母が心残りの


 孫をつれて夫婦で夜の散歩に出たのだろう。京都郊外の鄙びた地域には田圃がすくなくない。月明かりのなかでその匂いはいっそう懐かしく鼻腔を擽ったことだろう。まだ五十代後半であったはずだが、病いの自覚はなくとも余命を思うこともあったのだろう。先年亡くなった母堂も歌を詠む人だった。
 九月二十日、からだの異変に気づく。「夜中すぎ鏡の前で偶然気づく」の詞書で、
 左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり卵(たまご)大なり


 二十二日、病院へ検査に行く。「第二外科乳腺外来、稲本教授エコーを見せつつ」
 まつ黒いリンパ節三つと乳腺の影、悪性ですとひと言に言ふ
 さうなのか癌だつたのかエコー見れば全摘ならむリンパ節に転移


 術前検査は外来でおこなう。手術前日の歌。
 明日になれば切られてしまふこの胸を覚えておかむ湯にうつ伏せり
 藪に降る雨音のなかに過ぎてゆく朝までの時間無傷に残れり


 翌る十月十一日入院、当日手術。手術の所用時間は三時間ほどだった。
 八年後の2008年に転移が発覚し化学療法をつづけていたが、病いを克服することは叶わなかった。


 昨日(9月3日)の朝日新聞朝刊の「声」欄に、河野裕子さんを悼む投書が掲載されていた。投稿した四十一歳の「主婦」は、新聞で訃報を見ても最初は誰だかわからなかったが、記事を読んで「あの歌の作者だ」と気づいた、という。彼女が七年前に切り抜いて保存していた大岡信の連載コラム「折々の歌」には、河野裕子さんのこんな歌が載っていた。


 しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ


 当時、七歳と五歳の子を育てていた投書の主は、日々、幼子らといっしょにごはんを食べ、公園へ行き、ふかふかのふとんに寝かせるという「その単純なことの積み重ねが、どれだけ幸せなことか」を河野さんの歌が気づかせてくれた、と書いている。追悼することばは記されていないけれども、文面からその気持は充分につたわってきた。
 その歌は彼女には不知詠人の歌として記憶にのこっていたのだろう。これからも折りにふれ思いだし、口づさむのだろう。それは歌人にとってこのうえない栄誉にちがいない。