眼の中を墜ちゆく機影



 新年歌会始の歌が発表された。今年のお題は「葉」である。皇后美智子妃の、


 おほかたの枯葉は枝に残りつつ今日まんさくの花ひとつ咲く


は歌境にこれといって目新しさはないが、いかにも美智子妃らしい歌である。まんさくの黄色い花が枝にひとつ早くもひらいているのを見つけて、「まんさくの花がひらきましたよ」と天皇陛下にお知らせしていられる光景が浮んでくるかのようだ。花の咲くことを「咲まう=笑まう」ということなども思いだされて、好いお歌と思った。
 選者の永田和宏さんの、


 青葉木菟が鳴いてゐるよと告げたきに告げて応ふる人はあらずも


は、まんさくの歌とは対照的に喪失感が胸をうつ。だれもがこの歌に裕子さんのことを思い出すだろう。一般の入選者、上田真司さんの、


 ささやかな悲しみあれば水底に木の葉が届くまで待ちゐたり


とともに心にのこった。選者のひとり岡井隆さんの、


 銀杏落葉ふかくつもれる坂道をのぼりて行かな明日の日のため


には、まだ坂をのぼるんですか岡井さん、と相変わらずのタフネスぶりにあきれた。満八十三歳、岡井隆、老いてますます盛んなり。
 新聞記事によるとこれらの歌は「古式ゆかしい独特の節回しで詠み上げられた」由である。十四歳の大西春花さんの、


 「大丈夫」この言葉だけ言ふ君の不安を最初に気づいてあげたい


が「独特の節回しで詠み上げられ」る光景を想像するとたのしい。口語の歌だが旧仮名で書かれているのも頬笑ましい。
 やがて歌会始の歌にも口語の歌が大半を占めるときが来るのだろうか。


 えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力下さい*1


のような歌が独特の節回しで詠み上げられる光景を想像するのも悪くはない。

 
 さて、ところで久木田真紀という歌人を御存じだろうか。いまから二十年あまり前、1989年に、「時間(クロノス)の矢に始めはあるか」で第32回短歌研究新人賞を受賞した歌人である。
 わたしは詳しくは知らなかったが、加藤英彦氏の「幻の筆者への覚え書き――実在の作者から非在の筆者へ」*2によってあらましを知ることができた。以下、加藤氏の論攷にそってこの幻の歌人をざっと紹介してみよう。
 短歌研究新人賞を受賞したのはこんな歌である。


 春の洪水のさきぶれ昧爽の噴水の秀(ほ)に濡れるわが胸
 聴診器あてたる女医に見られおりわがなかにあるマノン・レスコー
 校庭で踊れるワルツ星星の自転をまねびいたるわれらよ
 さらば夏アトランティスを見て来たと誰か電話をかけてこないか
 紅梅をもったときからきみはもう李氏朝鮮の使者なのである


 ある種の詩的なイメージを言葉によって定着せんとする、いわゆる前衛短歌以降に特徴的な作歌法に習熟したレトリカルな歌であるといえよう。一首目の噴水の歌などは塚本邦雄の、


 高熱の遠き闇にて噴水の芯の青年像濡れどほし


とはるかに響き合っているといえなくもない。一首の求心力とリズムにおいて塚本の歌に遠く及ばないけれども。
 ともあれ、岡井隆、春日井建、大西民子、馬場あき子ら銓衡委員たちは「久木田真紀の修辞の巧さ」「“現代短歌の通貨”を巧みに使いこなす力量」に一票を投じ(ひとり近藤芳美のみがその技巧に――おそらく技巧じたいが存在理由であるかのような歌いぶりに――危惧を抱いた)、新人賞を受賞することになった。ところが、授賞決定後に「作者はモスクワ生まれ、オーストラリア在住の十八歳の少女」と知らされ全員が驚かされることとなった。
 その驚きは、しかしそれ以上の驚きに取って代わられる。作者は十八歳の少女ではなく中年の男性であり、「短歌研究」誌に掲載された「快活で少しエキゾチックな雰囲気の愛らしい少女の写真」(加藤氏)もウィキペディアによれば「自分の姪の写真を使ったもの」であった。ちなみに、その「姪」の写真は、風間祥氏のブログ《銀河最終便》に掲載された「短歌研究」の誌面で見ることができる*3
 久木田真紀は経歴を詐称して応募したわけだが、「短歌研究」誌はこの授賞を取り消すことはなかった。加藤氏は「それは、作者名を伏せて作品本意の審査をした選考委員への礼儀でもあったろうし、事情はどうあれ、授賞作として作品を評価し、公表した総合誌の責任のとり方としてはぎりぎりの選択だったのだろう」としている。「にも関わらず、久木田真紀の名は、やがて歌壇では誰も口にしなくなる」。
 そして、それから八年後の一九九七年、一冊の歌集が上梓される。『時間の矢に始めはあるか』(雁書館)、著者名は藤沢螢*4。加藤氏は版元に連絡を取り著者と面会する。当時、執筆していた「短歌朝日」にそのゆくたてを書かれたそうだが詳細はわからない。この論攷においても、その会談の内容についてはふれられていない。前述の《銀河最終便》に歌集の書影が出ている*5
 わたしがとりわけ興味をもったのは、銓衡委員たちの発言に関して、である。岡井隆は、男の歌か女の歌かわからない、と言い、春日井建は、どちらでもいいが作者の立ち位置が見えない、と言う。大西民子は「性別も年齢も謎」であると言い、馬場あき子は「人生という額縁の中で演技してみせているような、ある物わかりのよさが気になる」と述べている。久木田真紀の応募作五十首は、歌う主体が一定でなく変幻自在であったのだろう、そうした歌に慣れているはずの銓衡委員たちにさえ眩暈をもたらしたとみえる。
 <歌う主体=われ>が必ずしも作者とイコールでないことは、寺山修司を先蹤として、少なくとも岡井、春日井、馬場といった歌人にとっては改めて確認するまでもないことであったはずだ。その彼らが久木田真紀の歌を評価するにあたってある種の戸惑いをおぼえたということにわたしは興味をもった。そのあたりについては、久木田真紀の応募作五十首及び歌集『時間の矢に始めはあるか』を読む機会があれば改めて考えてみたい。


 先に、永田和宏さんの青葉木菟の歌にだれもが河野裕子さんを思い出すだろう、とわたしは書いた。むろん、永田和宏河野裕子が夫婦であること、河野裕子が昨年亡くなったことを知らない人たちも多くいよう。かれらはこの歌を永田和宏という一歌人の感懐としてでなく、人間の一般的な情理を述べた歌として鑑賞するだろう。それはどちらでもかまわない。どちらでもいいというところに、この歌の存在する場所があるからだ。まんさくの花の歌を読んで天皇陛下を思い浮かべる必要はない。だが、思い浮かべると、この歌の外延がわずかに膨らむかもしれない。それが歌である。
 歌の作者といえば、こういう逸話がある。ある作者が炭坑夫の歌を詠んで新聞に投稿し、入選した。同じ作者が詠んだ農夫の歌が別の選者によって選ばれ、同じ日の投稿欄に載った。さらに同じ作者が詠んだセールスマンの悲哀を詠んだ歌が短歌誌の読者欄に掲載された。これを知った評論家が「不真面目な入選当て込み」の行為であると非難した。だが、作者の抗議でこの非難は的外れであることが判明する。つまり、作者は炭坑夫の仕事のあいまに農夫をし、ときにセールスマンもする、というなりわいの人であった*6
 だが、この評論家の非難が的外れであったのは、作者がじっさいに炭坑夫であり農夫でありセールスマンであったからではない。セールスマンであろうとなかろうと、ひとはセールスマンの悲哀を歌に詠むことができるのである。「セールスマンの死」を書いたアーサー・ミラーが劇作家であってセールスマンでないと一体だれが非難するだろう。


 もう少しも酔わなくなりし眼の中を墜ちゆくとまだ兄の機影は


 こう歌った平井弘に戦死した兄が実在しなかったからといって、はたしてこの歌の価値が減じるだろうか。

*1:笹井宏之作品集『えーえんとくちから』PARCO出版、2011

*2:「Esコア」第20号、2010年12月15日発行

*3:http://sho.jugem.cc/?search=%CB%B4%A4%AF%A4%CA%A4%C3%A4%BF%C0%AF%C5%C4%D6%AA%C0%B8%BB%E1%A5%C7%A5%B6%A5%A4%A5%F3%A4%CE%CE%E8%E0%FC%E4%B5%A4%CE%C6%A3%C2%F4%EA%A5

*4:風間祥氏のブログ《銀河最終便》によれば、藤沢螢の名は「塚本邦雄選歌誌『玲瓏』誌上に、単発的に名前を見かけたこともある」との由。ちなみに、久木田真紀が受賞した第32回短歌研究新人賞の次席が西田政史と林和清。西田は翌年、「ラジオ・デイズ」の 藤原龍一郎とともに「ようこそ!猫の星へ」で短歌研究新人賞を受賞した。「玲瓏」にて塚本邦雄に師事したが現在は歌とは離れてしまったようだ。林和清は現在も「玲瓏」会員。期せずして三人とも「玲瓏」にかかわった歌人ということになる。

*5:http://sho.jugem.cc/?eid=1656

*6:上月昭雄『詞華巡歴』雁書館、1985年