ヴィヨンの小指



 昨年暮れに放映された『坂の上の雲』で、正岡子規の臨終の場面が描かれた。このドラマで子規の文業の偉大さ大きさはそれほど伝わらなかったかもしれないが、人間としての正岡升の大きさは(その卑小さとともに)見ているわたしを強く打った。子規の晩年を庇護した陸羯南のいう、子規の「人格の超凡」(「一藝に秀でたる人」)の一端が自ずと諒解された。月並みな表現だが子規を演じた香川照之の鬼気迫る演技は、わたしの近年目にしえたかぎりでのベスト・パフォーマンスといっていい。およそ二十キロ減量したという香川の痩身は死の床にある子規もかくあらんと思わせた。松田優作はかつて香川に「おまえは俺になれる」といったそうだが、狂気を孕んだ役者としての存在の在り様においてたしかに香川は優作と同類であった*1。デビューしてまもない香川の資質をひと目で見抜いた優作の眼力も相当のものである。
 わたしはフランソワ・ヴィヨンの小指の話を思い出した。たしかマルセル・シュオブ――「少年十字軍」と「架空の伝記」で忘れがたい――であったと思うが、ヴィヨンの小指がどんな形をしていたかわかったならば彼の姿を生きいきと思い浮かべることができるだろうと語ったというもので、その逸話はミシェル・レリスがなにかの本に書いていた。シュオブの時代には役者が実在の人物を演じるという映像作品はなかっただろうが(舞台ではどうだったのだろう)、かりにもう少し長生きして(シュオブは三十代で早世している)たとえばアベル・ガンスの『ナポレオン』でも見たならばヴィヨンの小指とは言わなかったかもしれない。


 さて、学生の頃より子規と親交のあった夏目漱石は、子規の歿後およそ十年に子規を回想して「子規の画」という文章を書いている。自分は子規の描いた絵を一枚だけ持っている。一輪挿しにさした東菊の絵で、眺めて見るといかにも淋しい感じがする。子規はこの絵を描くために少なくとも五、六時間の手間をかけただろうが、それほどの労力はいかにも無雑作につくる俳句や歌と「矛盾」してはいまいか、と漱石は書く。いささか長い引用になるが、途中で切ることができないので、このエッセイの後段を以下に掲げる。全文は青空文庫で読むことができる*2


 「東菊によって代表された子規の画は、拙(まず)くてかつ真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかと云ったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙(せつ)が溢れていると思うと答えた。馬鹿律義なものに厭味も利いた風もありようはない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画はまさに働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、とっさに弁ずる手際がないために、やむをえず省略の捷径(しょうけい)を棄てて、几帳面な塗抹(とまつ)主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れがたい。
 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年(えいねん)彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試(ためし)がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確にこの一拙字を認める事のできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としたかった。」


 漱石は子規の絵を拙いという。だがそこには愚直な好さがあると。筆をとれば俳句であれ文章であれスラスラと出てくる子規にして、絵筆はそうは参らぬ。手を掛け時間を掛け、ようよう出来上がったのがこの絵で、けして巧くはない。そこが漱石をうったのである。巧い絵ならば捨てて顧みなかったろう。
 人間として文学者として子規は「拙」の欠乏した男であったと漱石はいう。シュオブと同年に生れ、シュオブより三年早く早世した子規がよほどの天賦の才に恵まれた文人であったことを疑う者はいまい。十年たらずの文業を瞥見するだけで明白である。しかもその大半を病床で為しているのである。こんな文学者はほかにはいない。「拙」の欠乏した男が、絵筆をとれば拙になりえた。そこには「厭味も利いた風もありようはない」のである。ただ、惜しむらくは「画がいかにも淋しい」。もし子規にいましばらくの余生があったならば、いまとは違った子規もありえたろう、と漱石はそれだけを惜しんでいる。
 桶谷秀昭は『正岡子規*3において、漱石のこのエッセイをとらえて「漱石特有のあいまいさ」を解きほぐしつつ、こう書いている。


 「病気は子規の人間と文学を感動的なものにした。『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』を措いて子規を考へることはできない。病気は天刑であるが、また天恵でもあつた。しかし子規の身になれば、無意味な苦悶である。無意味な苦悶の中から、感動的な人間の姿をつたへる文章を生んだのは、病気をあたかも才能のやうに、厭ふべき特権に化した子規といふ人間の資質である。
 子規の資質が病気によつて、健康なときとは別なあらはれ方をしたと言へても、さういふことを可能にしたのは彼の資質である。単純に言つてしまへば、子規は病気によつて変つたのである。だが子規のやうな資質だけが、あのやうな病気にかかり、それに耐へることを可能にした、と言へるやうに思ふ。」


 桶谷は、子規の「再起不能の病の進行」によって「漱石の指摘した『拙』の欠乏は、ほとんど反対のものに変質したのである。子規が健康な時からもつてゐた満々たる覇気は、その鋭敏な意識によつて、『拙』そのものであるやうな一つの意志に変質したと思へるのである」と書く。そして「漱石の文章は、かういふ問題を暗示してゐる。そしてかういふ文章を書いたのは、おそらく漱石ひとりなのである」と。
 香川照之演ずる子規は病床を訪ねた秋山真之本木雅弘)にこう訴える。「アシの目指しとる俳句詠み正岡子規はこんなもんではないんじゃ」と。そのとき子規の脳裡を領していた自画像が、漱石の惜しんだありえたかもしれぬ子規の姿と重なっていたかどうかはわからない。哲学者のフッサールは臨終の床で妹のアデルグンディスに次のような文章をしたためたという。


 「私は、死ぬということがこれほどつらいとは知らなかった。ともかくも私は、生ある間ずっと、いかなる無益さも排除しようと全力を尽くしてきたのだ……! 仕事への責任感にかくも完全に満ちているちょうどそのときに……。人生の末端に到達し、自分にとってすべてが終焉している今このときにちょうど、私は、自分がいっさいを最初からやり直さなければいけないということを知ったのだ……」*4


 これをバタイユは「悦楽の恐怖」「幸福な恐怖感」と称している。子規をとらえていた感情はあるいはこうしたものであったのかもしれない。


 

*1:「華麗なる追跡」(1989年、日本テレビ)で共演した際に、松田優作からそう言われたと香川照之は語っている。

*2:http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/795.html

*3:「『常識』について」、『正岡子規』所収、小沢書店、1983年

*4:「非―知」、ジョルジュ・バタイユ酒井健編訳『純然たる幸福』所収、ちくま学芸文庫、2009年