さむるなき死の夢にしあれよ――塚本邦雄論序説(6)


 手元に一冊の古ぼけた歌集がある。表紙や奥付には「春の祝祭」とのみ題されてゐるが、打ち函の題簽や本体の背には「青樫第一合同歌集」との表記が見える。昭和十五年九月二十五日発行、発行所は大阪府豊能郡の青樫社。
 本歌集は、昭和十二年五月の創刊号より十四年十二月号に至る二年八ヶ月間の全作品二万首より千六百余首を撰したもので、出詠歌人数は百三十六名。「青樫」主宰者である秋田篤孝の跋文は、「青樫」に拠る歌人たちがいかなる歌をめざし、また、周囲からいかやうに見られてゐたかの一端を伝へてゐる。


 「私共の作品を現代の歌人達は非常に変つた作品と思つて居るやうですが、然し、私共は決して物ずきで変つた歌をつくつて居るのではなく、気まぐれでこれをつくつて居るのではないのであります。
 私共は精神が物質に勝ち、文化が経済の上に位置せねばならぬこと今日のごとく急の時をいまだ知らないからこそ、今日我が国の上下にみちみちて居る即物的短歌が決して吾々国民の情操を高めるに足らないものであると云ふことを知りつくして居ればこそ、私共は不才を省みず、私共の光栄ある冒険をつづけて居るのであります。
 私共の青樫新風の作はこのやうな理想から、唱ひだされたもので今日の写生主義の短歌が吾々の新しき浪漫に置きかへられる日はあまり遠くないと思ふのであります。」


 さうした自負にふさはしい「青樫新風」の特色が表れた作品の作家として秋田は、遠山英子、下條義雄、水野栄二、本田一楊、菊池敏江、鳴戸潮らの名を挙げる。さらに秋田その人と、岡部美智子、宮花弘、山口岩夫、山下治子らを加へたあたりが「青樫」の代表的歌人といへようか。
 「青樫」は太田水穂の「潮音」を出自とするが、同じく「潮音」から分かれた「木槿」とは異なり、日本浪漫派、サンボリスムなどの影響を受けた新しい歌風を樹立し始めてゐた、と塚本はいふ*1。「新しき浪漫」とはそのあたりを指してのことだらう。「青樫」のマニフェストともいふべき歌集を「春の祝祭」と名づけたことにもかれらの自負はうかがへよう。Le Sacre du Printemps 春の祭典は、いふまでもなく一九一三年五月、シャンゼリゼ劇場を騒然とさせたストラヴィンスキーニジンスキーのバレエであり、すなはちモダニズムアヴァンギャルドの劃期をなす作品である。
 ところで『春の祝祭』が刊行された年、昭和十五年とは短歌界にとつて特権的な年であつた、と塚本邦雄はかつてある講演で語つてゐる。


 「太平洋戦争前の短歌が、殊にいわゆる新風歌人たちの営為が最も美しく花開き、それからそれに先んじた大家の業績と相まって、絢爛たる爛熟期を迎えた、それは昭和十年代の前半であり、特に一年に限って言うならば、昭和十五年が代表していると思います。」(原文新かな)*2


 塚本は昭和十五年に刊行された歌集を並べ上げる。

 三月:斎藤茂吉『寒雲』『木下利玄歌集』、六月:茂吉『暁紅』『高千穂の峰』川田順『鷲』土岐善麿『六月』、七月:『新風十人』北原白秋『黒檜』坪野哲久『桜』、八月:筏井嘉一『荒栲』前川佐美雄『大和』岡野直七郎『太陽の愛』、九月:佐藤佐太郎『歩道』斎藤史『魚歌』、十月:五島美代子『赤道圏』、十一月:五島茂『海図』、十二月:前田夕暮『素描』橋本徳寿『海峡』大田水穂『螺鈿』。

 門外漢の私にも、この年の「圧倒的な顔ぶれ」が、これだけの歌集が一年に集中したことが、いかに尋常でないかは理解できる。塚本はさらに三鬼の『旗』以下の句集を挙げ、「芸術百般あらゆる面において、昭和十年代、特に十五年を中心に、栄光の断崖とも言うべき一つのピークが作られたのだ」と述べる。そして「この昭和十五年あるいは十六年前半の目も眩むような断崖から戦争に向かって芸術家はすべて転げ落ちて行く」。だが「皇軍大勝、聖戦謳歌の抗すべくもない掛声に同調して行った」のは時代に強ひられた故であり、「煮えくり返るような胸を抑えて同調していたに過ぎません。誰がそれを責めることができましょう」と述べてゐる。
 ちなみにこの講演は昭和五十一年(1976)九月〜十一月に行なはれたものであるが、戦後十年余を経た昭和三十二年(1957)に発表した評論「零の遺産」*3では、斎藤史ら「「大東亜戦争」へ墜落してゆくかつての前衛的芸術派」、そして「轡を並べて」愛国短歌へと雪崩れていつた茂吉、白秋から柴舟、信綱にいたる「大家長老」たちを弾劾してゐる。吉本隆明武井昭夫の共著『文学者の戦争責任』が刊行されて大きな話題となつたのが昭和三十一年(1956)であるから、おそらくその影響もあつてのことだらう。とはいへ、塚本が吉本らの尻馬に乗つて歌人の戦争責任を追及しようとした、といひたいわけではない。塚本にとつては、かつての前衛藝術派の「敗北」、すなはち「零の遺産」の上にいかに自らの短歌を築き上げてゆくかこそが焦眉の急であつた。そもそも戦争を、そしてその時代を呪詛する塚本の思ひは、戦中戦後のみならず晩年にいたるまでかれの念頭を去らなかつたのであるから*4
 塚本は昭和十五年当時の心境を、日本浪漫派への心酔を振り返りつつ書いてゐる(「短歌」昭和五十三年一月号)*5


 「一九四〇年前後の世界が、そこに生きる若者たちが、「あり得ぬ栄光」を「死」をメディアとして有り得るものに変へ、千載一遇の述志を試みたことは、むしろ自然であつた。「日本浪漫派」とはかかる極限状況に於てのみ、稀なる燃焼、昇華、結晶を誇る精神集団であり、少数の天才が、それを詞華として定著示顕してくれたのだ。その典型として『わがひとに与ふる哀歌』『氷島』『戴冠詩人の御一人者』『大和』『魚歌』を数へ、これらに心酔し、虚無の彼方に眼を据ゑて生きてゐた、太平洋戦争末期の自分を、今は一種寛大な気持で振返ることもできる。」


 伊東静雄萩原朔太郎保田與重郎、前川佐美雄、斎藤史らが塚本邦雄にいかなる影響を与へたかは、また新たな項目を立てて論ずべきだらう。かれらへの心酔は太平洋戦争末期にとどまらず、塚本をして戦後の「日本歌人」(前川佐美雄主宰)への入会を促し、そしてそれこそが塚本にとつての最大の転機であつたのだから。先の引用に続けて塚本はかう書いてゐる。


 「死だけを唯一の可能性とした、否する他はなかつたその一時期の悲愴な「述志」の歌を、私は悉く焚き捨てる日が巡つて来た。最後の楯とすべき「死」の必然は消え亡せて、いかに巧に、いかに華麗に生きるかが唯一無二の信條となる時代が私の前に人造宝石さながらに煌めいてゐた。私は生き直さうと決意してゐた。」


 前回述べたやうに青年邦雄は昭和十九年十一月、「青樫」に入会する。日本浪漫派やサンボリスムの影響を受けた「青樫」の歌風に親近感を抱いたためだらう。だが、昭和十五、六年頃の最盛期の輝きは、その頃の「青樫」にはすでになかつたと塚本はいふ。塚本が陶酔した最盛期の「青樫」の歌がいかなるものであつたか、本田一楊については既に記したので、その他の歌人たちの歌を引いておかう。


 萩の上の月吹かれたりそののちやとりとめてなにかなしきならず     秋田篤孝
 物語り江口といふが昔ゐてやさしかりけり月雪のこと
 水引草(みづひき)が夕べの空をくぎりては女ひとりが佇てりやうやく   遠山英子
 あらあらしく踏み入りて来ぬあやしめばただ真白なる花にてありき
 暗き日の青葉の奥にともりゐるわがかなしみを神ともおもへ        水野栄二
 樹陰ふかくひとりひそむも天日はかなしかりけりわが額てらす
 ヘルマン・ヘッセまた七月の夏の子と花のごとかなしかなしきわれは   下條義雄
 ひとたびは天に冲せしかなしみの崩れゆく日ぞ山燃ゆるなる


 水野栄二については前回記したが、下條義雄についても塚本は「火箭消えて――下條義雄「春火」追想」なる一文を捧げてゐる*6。そこで塚本は下條義雄の歌集『春火』から五十三首を撰してゐるが、ヘルマン・ヘッセはその冒頭に掲げられた一首で、「冒頭のヘッセは甘い。あまりにも甘い。しかしかくも晴晴と泣き濡れたロマンティシズムにはもはや手の下しやうもない」と述べてゐる。このヘッセと次の「ひとたびは」は、合同歌集『春の祝祭』にも収録されてゐる(なお、下條義雄は「しもじやう」ではなく「げじやう」と訓む)。
 この「火箭消えて」の冒頭で塚本は、戦後三、四年を過ぎた頃、杉原一司が「やつと戦後の短歌と呼べるやうな歌がここに一首見つかつた」と下條義雄の歌を差し出した、といふエピソードを語つてゐる。それは当時発刊された「風土」といふ超結社誌に載つた歌であつた、つまり、杉原は当時の「青樫」を知らなかつたといふことになるが、私の愛誦する杉原一司の歌、「帽振つて別れ惜しめば一面に春がぼやけて気が遠くなる」は、水野栄二の「うらうらといかに霞むも無益なる春なればふかく帽子かむるも」の本歌取りではあるまいか。
 それはともかく、塚本はかつて下條義雄の「最盛期の絶唱をことごとく諳んずるくらゐ愛誦したこと」を杉原に告げるのを憚つた。それは、下條の「繊細な詠唱が一歩また一歩と過去に向き、つひに明日への糧、跳躍台となり得ぬことを覚つてゐたからであつた」といふ。「青樫」の歌人たちの最盛期の歌に陶酔しつつ、自らのめざす歌はここにはないと思ひさだめた、それは塚本のメトード=方法への意志といつてよいだらう。
 塚本はその下條義雄論を次の一節で閉じてゐる。


「 枯れ笹のむらがり咲くは野に眠りさむるなき死の夢にしあれよ

 この捨身の願望、つねに裏切られて終る希求、言葉の死の誘惑に、彼は耐へに耐へて、その揚句身を委ねたのだらう。それは詩人の、否詩歌のさだめの一つであるかも知れぬ。私はその一つを採らず信じようともせず、今日この一首に心から愛惜の微笑を餞(おく)るのだ。」


 ――つねに裏切られて終る希求。それはひとり下條義雄に限りはしまい。「吾々の新しき浪漫に置きかへられる日」を希求して集つた「青樫」の歌人たちもまた同断であつた。『春の祝祭』と名づけられた一冊の合同歌集を手にするとき、私はストラヴィンスキーが当初この曲に与へようとしてゐた名を思はずにゐられない。「犠牲」といふその名を。


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*1:「初心忘るべし」、前回註参照

*2:塚本邦雄『詩歌星霜』花曜社、1982

*3:「零の遺産」、「短歌研究」昭和三十二年三月号、『定型幻視論』人文書院、1972、現代短歌体系十二巻『現代評論集』三一書房、1973、所収

*4:来嶋靖生塚本邦雄――『魔王』戦中語句私註」、『現代短歌の午後』雁書館、2006、所収参照

*5:塚本邦雄「不透明文法」、『稀なる夢』小澤書店、1979所収

*6:「火箭消えて――下條義雄「春火」追想」、『煉獄の秋』人文書院、1974所収。下條義雄については「瞬歌――下條義雄」なる短文もある。塚本が昭和二十六年に「青樫」に発表したエッセイは『詞華栄頌(審美社、1973)で読むことができる。上記の「瞬歌」および「背日葵――山口岩男」、「ふたたび夏――秋田英子」』の三本。山口岩男は岩夫の誤植か。秋田英子は遠山英子のことだらう。