緋色の椅子もしくは物質的恍惚――来嶋靖生『現代短歌の午後』を読む


 来嶋靖生さんの新しい評論集『現代短歌の午後』*1を読む。短歌誌、新聞などに発表された現代短歌および短歌史をめぐる評論、エッセイを収録したもの。私は短歌史についても現代短歌についても殆ど無知なので、裨益するところ大であった。さまざまに感想を抱いたけれども、ここでは、第三章「現代短歌をめぐって」のなかの「日常詠の可能性」について少しくふれてみたい。


   1

 弟の破(や)りし障子をその兄の手つきつたなく切りばりをする

 後より来る学生のわが羽織襟の折れずと心づけにけり


 来嶋は窪田空穂の上掲の歌二首について、次のように解説する。


 「前の歌は家庭生活の一齣で、何ということもないささやかな情景だが兄弟のかわいらしさが出ていてほほえましい。後の歌は通勤の途上のことであろうか。襟が立ったままで折れていませんよ、と後から来た学生が声をかけてくれた。些細なことだが、作者はその小さな親切を形にせずにはいられなかったのだ。
 こういう感情のこまかい動き、微旨を捉えて歌にするのが空穂の特色で、はやく釈迢空が着目し、心の微動という言い方で指摘している。それは心のより深い動きを自ら把握し、散文とは違う韻律を伴った感情の起伏を形象化することである。こうして日常詠はただ生活の上のさまざまを捉えることの上に、より広く奥深い人間感情を描くことが可能になった。」


 正岡子規長塚節根岸短歌会によって誕生した日常詠が、「新しい思想」を詠った石川啄木、土岐哀果、そして「人の心の微妙な動きを詠む」空穂によって「拡充」されてゆく、といったくだりにおける趣意であるが、この空穂の歌の特徴は、以前書いたように来嶋自身の歌にもよく見られるところである。迢空の「心の微動」という表現が言いえて妙である。
 来嶋はこの小論の結びに「新しい日常詠」として四人の歌人の歌を挙げる。


 浴室に唄きこえをれど上がりたる少年の目のつねならず険し   花山多佳子

 雪の憂愁かぎりなき夜をちろちろとくれなゐの鮭の肉焙りをり   小島ゆかり

 巻き貝がことりと動くかそけさの春の胎児の寝返りの音      早川志織

 雛といふ円錐の女男ならびゐて今宵まつ青な冬星を見る     米川千嘉子


 いずれも女性の歌であるのは意図してのことか。こうした歌も、来嶋が空穂の歌について述べた「心のより深い動きを自ら把握し、散文とは違う韻律を伴った感情の起伏を形象化」した歌といえるだろう。
 花山の歌は、中学生ぐらいの息子が浴室で鼻歌を歌っているのを聞いて上機嫌かと思っていたら、風呂から上がると意外に険しい目つきをしていた、という歌。少年を詠った歌であるけれども、詠み手である母親の「心の微動」がより読者に迫ってくる。早川の歌は、妊婦が胎児に抱く思いが読者に素直に伝わる。胎児の微妙な動きを巻き貝の動きに喩えたレトリックが秀逸である。
 この二人の「感情の起伏」を推測するのはそれほど難しくはないが、小島と米川の歌における心の動きは微妙で、雪の降る夜に台所で鮭を焼いている詠み手や、雛人形が飾られた二月末(だろう)の夜空を仰ぐ詠み手の心の動きをどう理解するかは、読者に委ねられる割合が大きいといえる。小島の歌には「憂愁」という語があるが、いかなる憂愁であるかはさだかでないし、米川の歌は雛人形と星空を見上げるという動作との関連が示唆されないため、いかようにも感受することができる。そのあたりに現代短歌の特徴のひとつがうかがえる、といっていいかと思う。
 

 来嶋は、元来は別々に書かれた<「物」を詠む>というエッセイを、この日常詠についての考察のあとに配して、ひとつながりの主題を構成している。このエッセイは、衣食住に関わる物――椅子、白桃、シャツ、時計等々――を詠みこんだ歌を挙げて、そうした「素材」にいかに「新しい生命を吹き込」んでいるかを検討したもので、日常詠がいかに「拡充」されているかの一例といえよう。
 「椅子」を詠んだ歌は、次の三首があげられている。


 重ねこし両手(もろて)を解きて椅子を立つ判決放送の終りたるゆゑ    宮柊二

 かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は          大西民子

 椅子二つ向きあひてゐる空部屋に夫妻といへる過去ありしかな       斎藤史


 宮柊二の歌の「判決放送」は、極東軍事裁判のラジオ放送。来嶋はこの「椅子を立つ」を、「ある歴史的事実の確認と、それに対する作者のきっぱりとした、またある悲しみをもこめた感情表現」であるとし、「描写するための椅子ではなく、感情の拠り所としての椅子である」と述べる。そういう意味では、大西の「幻の椅子」も斎藤の「向きあへる椅子」も「感情の拠り所としての椅子」といえるだろう。いずれの歌でも、椅子(宮の歌では立つという動作)のコノテーション/内示的意味が一首の統辞上の核となっている。これらの歌における「心の微動」はそれほど理解しにくいものではあるまい。


   2

 椅子の歌といえば、私がまず第一に思い浮べるのは村木道彦の「緋の椅子」である。


 めをほそめみるものすべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子


この歌は、先の三首とちがって聊かわかりづらい。ここでの椅子が何をコノート/暗示しているのかが不明であるからだ。世界は危うさに充ちている、一脚の緋色の椅子さえもいまや危機に瀕しているではないか。むろんこの歌の良さはそうした意味内容にあるわけではない。おそらく最後の砦であろう(だが何の?)一脚の椅子の物質的確かさを硬ばった漢字で表わし、それ以外をすべて仮名書きした視覚的表現と、「あやうきか」「あやうし」の応答/畳掛け、このレトリカルな言語表現が、そして、なべてモノクロームとなり果てた世界で、たった一つ最後に残された色鮮やかな緋色の一脚の椅子、その鮮烈なイメジャリーが一首のすべてであるといっていい。
 むろんこれも「心のより深い動き」から発した歌にはちがいあるまい。だがその「心の微動」がいかなるものであるかは、ここに挙げた他の歌ほど明快ではない。椅子を詠った村木の別の歌を挙げてみよう。


 かぎりなく憂愁にわがしずむとき水辺にあかき椅子はおかれる


ここでの椅子は、わが「憂愁」に対応しているが、この「あかき椅子」は「緋色の一脚の椅子」にくらべて、なんと色褪せて見えることだろう。「憂愁」に対応している分、歌意はわかりやすくなっているが、椅子の持つ物質的輝きは失われてしまっている。
 物質的恍惚――。
 村木にとっての「緋色の一脚の椅子」は、「突如としてゼロから現出したマチエール(物質)」であり「ぼくの躰とぼくの精神とを形作っているマチエール(材質)」*2なのである。ル・クレジオなら数万語を費やして縷述する「物質的恍惚」を一首で表現しきったところにこの歌の屹立する輝きがある。
 この緋色の椅子も「感情の拠り所としての椅子」と言えなくはないが、他の歌の椅子とちがって何かの象徴でも何かの隠喩でもない、デノテーティブ(明示的)なマチエールそのものなのである。
 

*1:来嶋靖生『現代短歌の午後』雁書館、二〇〇六年七月刊

*2:ル・クレジオ豊崎光一訳『物質的恍惚』新潮社、一九七〇年