アサミフチとは俺のことかと浅見淵



 「槻の木」四月号に来嶋靖生さんの「浅見淵随筆集『燈火頬杖』(藤田三男編)を読む」が掲載されている。同号には渡辺守利氏の「浅見淵随筆集『燈火頬杖』のことなど」もあり、『新編 燈火頬杖』(ウェッジ文庫)の批評号となっている。
 来嶋さんは、この文庫本を手にして「あっと思った」。榛地和(藤田三男)によるカバーデザインに、「茜ぞめ」創刊号に通うものがあったからで、自分の勝手な印象だと断りつつ「私は何となく浅見―都筑の無言の糸、でなければ同世代早稲田の、言葉を超える気風のようなものが思われた」と述べていられる。「茜ぞめ」は、「槻の木」の前主宰者である都筑省吾や、のちに砂子屋書房を起す山崎剛平ら、早稲田大学の窪田空穂門下の学生たちが創めた短歌同人誌で、創刊は大正十年。藤田さんも早稲田出身の都筑門下であり浅見淵の教え子でもあるから、来嶋さんのいわれるようにある種のDNAのようなものが受け継がれているのかもしれない。「茜ぞめ」創刊号の書影は雄松堂のサイトで見ることができる*1
 『新編 燈火頬杖』に収載された「秋半日」は、浅見が終生親しくまじわった都筑とのある半日のふれあいをたんたんとしるした佳品で、福岡在住の詩人が書くように、「本当にいい随筆は「秋半日」といったものである」とわたしも思う*2。浅見は晩年になって短歌を詠みはじめ「槻の木」などに発表した。都筑は「「浅見が歌を始めたよ」とご機嫌であった」という。浅見の遺した短歌は、没後、『浅見淵の歌』(槻の木叢書、河出書房新社刊)として纏められた。


 来嶋さんの文で可笑しかったのは次の件り。何年か前に古書店で入手した『槍ヶ岳の鉄くさり』という浅見の本の奥付の著者名に「アサミフチ」とルビが振ってあったという。「いくら何でも「フチ」はないでしょう、と言いたいところ」と来嶋さんは呆れているが、「浅見フチ」には思わず口元がゆるむ。
 浅見淵、あさみふかし。川崎長太郎は浅見を「エンちゃん」と呼んでいた、と『新編 燈火頬杖』にある。「名乗(なのり)はしばしば音(おん)で称される」と書いていられるのは高島俊男先生。「お言葉ですが…」シリーズの第七巻『漢字語源の筋ちがい』(文春文庫)のなかの「ヒロシとは俺のことかと菊池寛」。この表題は芥川龍之介の句を拝借したもので、斎藤緑雨の「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」のもじりである。これはとても面白いエッセイで、ずいぶんと勉強になった(高島先生の本はどれも面白くてためになるのだけれども)。名前にかんする話題は先生も興が乗っていらしたと見え、数回の連載になっている。以下、高島先生の御説を簡略に紹介しておこう。
 名乗(なのり)は実名(じつみょう)ともいい、清盛、頼朝、信長、家康のように原則漢字二字で訓よみする。歴史上の人物の実名のよみは、はっきりとしない。明治の元勲山縣有朋でさえ、当時、英国の日本大使館の誰も実名のよみを知らなかったそうだ。そこで「名乗はしばしば音で称される」ということになる。


 「それに、どうよむかわかっていても、特に当人がまだ生きているあいだは、名を直称するのははばかられる。音で言うのは、その人を直接さすのではなく、名の文字をさして言っている、つまり間接にさしているという意識がある。音で言うほうがずっと口調がいい、ということも無視できない。
 それになんと言っても、音には敬意がふくまれる。ひろく名を知られた人ほど、その名を音で言われることが多い。逆に言えば、名を音で呼ばれることは、著名人であること、多くの人から敬愛されていることの証拠である。」


 高島先生は、松本清張安部公房、その他大勢の方々の例を挙げていられる。なかに浅見淵(えん)、伊藤整(せい)の名もある。
 伊藤整といえば、むかし、わたしが書評新聞の編集者をしていた頃、ある高名な文藝評論家と電話で話をしたさいに、ウッカリ「伊藤ひとし」と言ったら言下に「伊藤せい」とただされた。当時は若気の至りで「このセンセイ、伊藤整の本名も知らないのかしらん」とあなどったのだけれども、じつは青二才の滑稽な知ったかぶりを窘められたのであった。いやはや。そういえば、その書評紙の編集部では、当時、一部の学者や作家の実名を音よみするのがはやっていた。はやっていたのかどうか、ともあれ、高名な学者であろうが小説家であろうが歯牙にもかけない(著者を「先生」などと呼ぶ者はひとりもいなかった)、ひと癖もふた癖もありそうな小生意気な若者たちが集まっていた編集部で、一部の著者にたいしては実名の音よみがならいとなっていた。林達夫(タップ)、山口昌男(ジョーダン)、松田修(シュー)。由良君美は「クンビ」ではなく(さすがにヘンですね)「ユラキミ」だった。そこにはたしかに「敬愛」の韻きがなくもなかった。そうした先輩同僚の言動の端々から、だれが本当に尊敬に値する書き手なのかを新米編集者のわたしは学んだように思う。もっとも故なく軽んじて、のちに修正を余儀なくされるということもなくはなかったのだけれども。
 話が横道に逸れた。明治以降は、吉田茂芦田均竹下登のように一字訓よみ(通常三音)の実名が多くなる。斯く言うわたしも実名は一字訓よみ(三音)である。どうでもいいことですけど。もっとも一字の場合は、音よみすると不都合な場合もありますね。「芦田きん」はいいけれども、「吉田も」や「竹下と」はちょっと具合がわるい。俺のことかの菊池寛とか、原敬とかは、もう音よみで通っているので訓よみすると別人かと思われかねない。高島先生は、自分の原稿の「瀧川幸辰」に編集者が勝手に「ゆきとき」と振り仮名を振ろうものなら猛烈に立腹なさるそうである。「上田萬年」またしかり。「上田かずとし」なんて、わたしもやりそうな気がするなあ。気をつけなくっちゃ。
 

 さて、高島先生の御本は誰もが御存知だろうが、あまり人に知られていない本からちょっと御紹介しよう。須田功の『のこされし夢』。兄の須田栄が昭和九年に上板した私家本である。栄によれば、功は、大正十五年元旦の萬朝報で天才児童として紹介され、十五歳で講談社から銀盃を受け、十六歳で平山蘆江の挿絵を描き、十七歳にして徳川夢声大辻司郎らの「漫談讀本」の装訂を手がけ、そして十九歳で夭折した。本書は功の遺稿集で、長谷川伸平山蘆江、野村無名庵、島田正吾が序文を寄せている。やわらかなタッチのイラストや四コマ・ひとコマ漫画、詩、散文などが収められている。
 以下は、功、十五歳のおりの散文「通知表取り」から。


 <『須田功(コヲ)……』先生の呼ぶ声が一際大きく聞こえた。皆んな下を向いてエヘラエヘラと笑ひだした、酢蛸と聞いたらしい。
 『オイ、何をしてるか、須田功』また酢蛸をくり返したので、今度は一時にクラス中が爆笑した、僕もテレた、七面鳥の顔色も怪訝さうに変つた。
 『何がおかしいのか』
 『僕は、須田功コヲでは無いのであります』
 『ふーム、コヲで無いのか、では何か?』
 『イサヲと読むんです』
 『うむ、さうか、いさをか、では須田いさをッ』
 『はーいッ』
 通知表を受取つた僕は、教室を出ると廊下の隅へ行つて、恐ろしいものでも見るやうに通知表を開いた。>


 酢蛸ではいささか具合が悪かろう。ちなみにわたしの実名は音よみすると「ジ」になる。小学校四年生のとき、担任に「ジ」と呼ばれ、クラスの皆んながエヘラエヘラと笑ったことがある。わたしはその担任をにくんだが、いま思うと、担任はわたしに敬意をこめてそう呼んだのかもしれない。

*1:http://yushodo.co.jp/press/jlm_rare10/rare10.html

*2:http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-580.html  で、詩人は浅見淵の批評の特質を対象への愛であると的確に論じている。また、http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-570.html では、「現実を小説として読む」浅見の方法を指摘している。鋭い直観である。