「槻の木」の人々――岩本素白素描

 『群像』の一月号から始まった「僕の古書修業」という連載エッセイが面白い。筆者は表参道でカウブックスという古書店を経営する松浦弥太郎。著書も何冊かあるそうだが未見。
 連載第一回は「師匠との出会い」と題し、ひとりの老人との出会いを語る。書籍の編集者、文筆業、商社勤めなどを経てきた老人A氏は、一方で「随筆とエッセイの研究に三十年余り没頭」してきた趣味人である。「僕」を自宅に招いたA氏は蒐集した五千冊余の書物を示してこう言った。すでに四百枚の原稿を書いたが、研究を仕上げるにはあと四百枚は必要であろう。ついては、随筆集専門の古書店主であり文筆家でもある貴方に私の研究と執筆を引き継いではいただけまいか。
 こうしてこの老人のもとで「僕」の「古書世界の狂気を知る修業」が始まるわけだが、A氏がかつて東峰書房で編集者として手がけたという火野葦平の『随筆 珊瑚礁』や深田久弥の『春蘭』、川端康成『文章』、小堀杏奴『回想』などはむろんいずれも実在する書物で、こうした固有名詞がこのエッセイにリアリティを附与しているのだけれども、エッセイとは言い条おそらくかなりのフィクションが加えられているとみて間違いなかろう。抑々擢んでた叡智をもつ老人のもとで未熟な若者が修業するという枠組じたい、洋の東西を問わず繰り返し語り続けられてきた説話の一原型にほかならない。虚実皮膜の文とみなす所以である。

 連載第二回で老人は「僕」にこう問いかける。「では貴方、岩本素白は読んでいますか?」
 読んでいるという「僕」に老人は重ねて問う。「では貴方、全集の第三巻。一八六ページの項は覚えていますか?」。一、二巻は随筆なので古書店で買ったが三巻は文学研究なので買わなかったという「僕」に老人は、


 「それは貴方、浅はかですよ。岩本素白は日本で初めて随筆講座を開いた人。そしてこれから随筆を学ぶ貴方にとって、岩本素白こそ先生にするべき人です。文学の玄人は、岩本素白を明治以降の最高の古典的随筆家と口を揃えます。彼の随筆は全集のみならず、『素白随筆』(春秋社・昭三八年)で容易に読むことができるが、文学論文は全集以外で探すのは難しいんです。とにかく随筆を学ぶ上で、全集の三巻を読んでいないと、始まるものも始まりません」


と断言する。そして、素白の弟子、文藝評論家の浅見淵の「最高級の随筆集」である『燈火頬杖』、砂子屋書房主の山崎剛平の『若き日の作家・砂子屋書房記』などに話はおよぶ。
 連載第三回では、谷川俊太郎和田誠の五百部限定の幻の絵本『しりとり』を背取師から五冊買い取る話。いま発売中の四月号第四回で素白全集第三巻に話は戻るのだけれども、岩本素白浅見淵山崎剛平らはいずれも来嶋靖生藤田三男さんの所属する短歌誌「槻の木」の先輩にあたる方々である。浅見淵には『浅見淵の歌』、山崎剛平には『挽歌』の歌集がある*1
 私は昭和萬葉集を始め来嶋さんには一方ならぬお世話になったが、岩本素白についても浅見淵についても何ひとつお話をうかがわなかった。若い頃は概してきらきらとした才能にばかり目を奪われがちで、こうした枯淡な文業を味わうだけの素養に缺けていたといわねばならない。熟々始末に終えない暗向の見本である。

 ところで、私もまた素白全集の第三巻を未読である*2。所持する春秋社版『素白随筆』に、刊本随筆『山居俗情』(槻の木叢書・砂子屋書房刊)、『素白集』および「素白集以後」(東海道品川宿を収める)が収録されているので、素白の随筆はほぼ読むことができるが、第三巻に収められた刊本『日本文学の写実精神』、および文芸論叢、信濃詠草などはまだ目にしていない。この松浦氏の連載エッセイを機に図書館で借りて読んでみようかと思う。
 素白の随筆は、みすず書房の「大人の本棚」シリーズの皮切りに『素白先生の散歩』が池内紀の編で出た(二〇〇一年)。全集一、二巻から撰ばれた随筆のみで編まれたものだが、「大人の本棚」というに相応しい。この本が刊行されたときにbk1に書いた書評を(bk1で今も読むことができるが)ここにも掲げておこう。


   天下の逸品「素白随筆」を味わおう


 「いつも素白先生である」と編者の池内紀氏は解説で云う。「なぜか、こうなる。素白さん、素白氏、どれもいけない。やはり素白先生だ」
 そはく、と訓む。本名は岩本堅一。明治16年生れ。早稲田大学(当時は東京専門学校)を卒えて、母校の麻布中学で教鞭を執る。教え子に国文学者の伊藤正雄がいる。
 「強度の近眼鏡の中からギョロリとした目を光らせて、頬に微笑を湛えながら、歯切れのいい江戸っ子弁で説出される明晰な講義は、私に大へん好ましいものに思われた」と、著書『忘れ得ぬ国文学者たち 新版』(右文書院)に、伊藤正雄は恩師の思い出を認めている。当然「素白先生」である。師の随筆は「まことに天下の逸品というを憚らない」とも。小説家の広津和郎も教え子のひとり。『年月のあしおと 上』(講談社文芸文庫)に「作文を見て貰っていた」の記述がある。

 麻布中学に十数年在任の後、素白先生は早稲田高等学院教授となる。このときの教え子に小説家の結城信一がいる。結城信一は、爾後も素白先生と親交があったらしく、戦後まもなくの頃、「岩本素白をしばしば訪れる」の記述が『結城信一全集』第1巻(未知谷)の年譜にある。当然「素白先生」であろう。
 「岩本素白翁」と書くのは国文学者の森銑三(『新編明治人物夜話』岩波文庫)。「岩本翁のことを思うと、それだけで、心の澄んで来るのを覚える」と女学生のごとく恋情を告白する。森銑三は素白先生より12歳年下。さらに6歳下に国文学者の稲垣達郎がいる。素白先生が早稲田大学国文科の教授となった2年後の大正13年、稲垣達郎は同国文科に入学する。後にエッセイ集『角鹿の蟹』(講談社文芸文庫)に、「世間に目立つようなことの一切を好まれなかった」素白先生の思い出を記す。反骨、反俗の人とも。稲垣達郎は学生の頃、早大教授で歌人の窪田空穂が主宰する歌誌『槻(つき)の木』の創刊に参加し、短歌や小品文を発表する。空穂の同僚であった素白先生もまた『槻の木』に多く随筆を発表した。

 並外れた潔癖さで作物の公刊を固辞した素白先生の生前の著書は3冊。死後、全3巻の全集に纏められたが、入手しがたくなって久しい。このたびの1巻本選集の刊行は欣快の至り。種村季弘氏は本書を評して「何といっても品川宿をはじめとする東京の下町や、武蔵野の面影がのこっている郊外の散策記が絶妙である」と述べている。
 「荷風のような人の語りのこした東京を、いわば大人のなかの子供の目を通して微細に描き込んだ細密画を見る思いがする」と。至言である。私なんぞの感想は書かでもの事。ただ素敵に面白いと而已(のみ)。
 素白先生、昭和36年没。享年78。「六十年間渝(かわ)らざる親交をつづ」けた空穂は、畏友の死を悼んで数首を捧げた。


  わが魂引き入れらるる思ひもて柩のうちの素白に見入る


 「語を絶する感あり」と、詞書に記している*3。 
                             (2002.03.07)


 かつて作品社の「日本の名随筆」シリーズの資料蒐集に携われ、このブログに毎回懇切なコメントを寄せてくださる博識無類のnagorinoyume様は、この連載「僕の古書修業」にどのような感想をおもちだろうか*4


【追記】
 藤原龍一郎さんのウェブサイト<電脳日記・夢みる頃を過ぎても>の三月十一日の条に「夕方、東京會舘でおこなわれる「槻の木」80周年記念会に出席する」とあった。してみると、この文章を書いているちょうどその頃、記念会が開かれていたということになる。暗合というべきか。
 「槻の木」創刊時のエピソードに関しては、都筑省吾『歌を詠み始めた頃』(河出書房新社、一九八九年)に詳しい。また、「槻の木」巻頭に掲載されている来嶋靖生さんによる月々の秀歌鑑賞は、ウェブサイト<インターネット短歌>の「今月の歌のページ」で読むことができる。


素白先生の散歩 (大人の本棚)

素白先生の散歩 (大人の本棚)

*1:浅見淵の歌』(河出書房新社、一九八四年)、『挽歌』(砂子屋書房、一九三六年)、いずれも槻の木叢書。松本八郎氏の「早稲田の文人たち 【その8】保昌正夫」(ブログ<WasedasideWalk>に連載)によれば、『浅見淵の歌』は、浅見没後に保昌正夫が「自腹を切って」刊行したとの由。松本氏の主宰する出版社EDIが発行するリトルマガジン「舢板(サンパン)」は、同誌の同人でもあった保昌正夫没後、追悼特集を組んだ(第III期第4号「保昌正夫追悼特集」二〇〇三年三月)。また、藤田三男は師保昌正夫の三周忌に、保昌の単行本十八冊から五十一篇を撰し、『保昌正夫 一巻本選集』(河出書房新社、二〇〇四年)を編んだ。装本はむろん藤田三男=榛地和である。山崎剛平砂子屋書房に関してはウェブサイト<稀覯本の世界>に詳しい。砂子屋書房刊本の書影も多数掲げられている。

*2:岩本素白全集』は全三巻。一九七四−七五年、春秋社刊。

*3:窪田空穂は『山居俗情』『素白随筆』ともに、巻末に解説を寄せている。素白追悼の歌「岩本素白君と死別す」は歌集『木草と共に』に七首を収める。引用は『窪田空穂歌集』(大岡信編、岩波文庫、二〇〇〇年)より。

*4:連載「僕の古書修業」第四回では、今泉みねの名著『名ごりの夢』の名も挙げられている。