鈍色のニヒリズム――西條八十


 テレビで久世光彦の葬儀の様子を放映していた。夫人の涙ながらの挨拶以上に、一瞬映し出された俳優たちの憔悴した面持ちがより多くのことを語っていた。もう久世さんの演出のドラマで彼らを見ることはないのだと思うとひどく残念な思いがした。人の死を、死そのものを悼むよりも、自らの娯しみを奪われたことを残念がるのは人として不実というべきだろう。だが、作家とは、否、藝術家や藝能者、総じて人に娯しみを与えることを生業とする人たちにとってそれこそ本懐ではあるまいか。心より残念がることこそ彼らにふさわしいまことの哀悼であろう、そんな由無し事を思ったりした。
 蹌踉と抱きかかえられるように現れた森繁久彌が、壇上の遺影に向って振り絞るように「久世よ!」と発した哭びに心を打たれた。葬儀に参列した人々はひとしなみに哀しみを湛えていたが、ひとり森繁のみが死の酷さを歎いているようだった。森繁の語りを素材にした久世光彦の『大遺言書』で森繁はこう語っている*1


 「長生きするということは、人と一人また一人と、別れてゆくことです。代われるものなら、代わってやりたいと思うことが、幾度もあります。倅の泉が死んだときがそうでした。向田邦子のときも、松山英太郎のときもそうでした。天は酷(むご)いことをなさる。この年になると、悲しいというのと違う。――辛い」


 前にも書いたが、久世さんに西條八十について語っていただいて本にしたことがある。久世さんの演出されたTVドラマ『小石川の家』で森繁は幸田露伴役で出演したが、そのときのことを久世さんはこんなふうに語っていた。


 「その中で、不仲で別居していた奥さんが信州で死んだという知らせが露伴のところに届くんです。喧嘩ばっかりして大嫌いな女だったんだけれども、その知らせを聞いた夕方、露伴の森繁さんが縁側に座って、庭の大きなムクの木の枝ぶりを眺めながら、「お山の大将 俺ひとり」って歌い出すんですよ。これは名シーンだったね。スタジオのカメラマンが泣くんだもん。それは西條さんの詞がすばらしいのと、やっぱり森繁さんがいいんですよ。耳がもうほとんど聞こえないから音程がとれない。音程が外れてるんだけど、その外れ方が切ないんだよね。「あとから来るもの 夜ばかり〜」でぽかーんとね、縁側に座ってる。さすが森繁っていうね」


 ドラマは見逃したが、情景はしっかりと眼裏に彳つ。西條八十の「お山の大将」はこういう詩である(大正九年に「赤い鳥」に発表された。作曲は成田為三。「唄を忘れた金絲雀は、後の山に棄てませうか」の「かなりや」と同じコンビである)。


   お山の大将


  お山の大将
  俺ひとり
  あとから来るもの
  つき落せ


  ころげて 落ちて
  またのぼる
  あかい夕日の
  丘の上


  子供四人が
  青草に
  遊びつかれて
  散りゆけば


  お山の大将
  月ひとつ
  あとから来るもの
  夜ばかり


 森繁はこの唄の「あとから来るもの 夜ばかり」の部分を勝手に短音階に転調して歌ったという。だがそれはこの詩にいかにも似つかわしい。塚本邦雄が「白孔雀納棺」という西條八十論でこの詩にふれて書いている*2 


 「(略)「あとから来るものつき落せ」の断言はなまなかのものではない。乾いた、暗い目がこの幼い叫びの後にちらつく。表向は子供の遊戯描写のやうに見えながら、最終行、「あとから来るもの夜ばかり」と歌つてしまつてから、私たちの感ずるのは、うつろな、味気ない、厭世の思ひに近い。この歌の中には何気ない様子で鈍色(にぶいろ)のニヒリズムが坐りこんでゐる。怖ろしい童謡もあつたものだ」(原文正字


 森繁は西條八十の「鈍色のニヒリズム」を鋭く感知したのだろう。久世さんのいう「胸ふたぐばかりの切なさ」ともそれは通じあうものといっていい。切なさを鎧の下に隠して、泣くが嫌さに笑い候、と嘯いてみせる強かさが八十の流行歌にも底流している。
 同じく西條八十についてインタビューした宗教学者山折哲雄は「八十の歌の底には明るい無常感と暗い無常感とが流れている」と指摘する。『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」という叙情的なしらべに乗せた暗い無常感と、道元の「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」、良寛の「形見とて何残すらむ春は花 夏ほととぎす秋は紅葉ば」に見られる明るい無常感。いずれにせよ日本の無常感は伝統文化における抒情性と深い関わりがある、と。
 この二つの流れの先に、大衆に愛唱された西條八十の流行歌の世界があるとする山折哲雄の指摘は鋭い。「芸者ワルツ」から「予科練の歌」まで作詞する一方で、北原白秋と並ぶ象徴派の詩人であり、早稲田大学で教鞭を執るランボオの研究者であったところに西條八十の特異性がある。
 早稲田大学の仏文科で八十に教わった村上菊一郎は学生時代の興味深いエピソードを伝えている*3


 「昭和九年ごろ全国各地に新民謡や何々小唄のブームが続き、人気作詞家の西條先生は引っぱりだこで東奔西走、席の温まるひまもなかった。(略)そんな歳末の或る日、先生は久しぶりに教室に現れ、ランボーの長詩「酔いどれ船」について注釈を述べていた。(略)すると突然、教室外側の道路からチンドン屋の一隊が「昔恋しい銀座の柳……」と「東京行進曲」をにぎやかに演奏しはじめたからたまらない。わたしたちはいっせいに爆笑して先生の顔を見上げた。先生は「わたしの歌は流行しているのですね」ととぼけた口調でつぶやきながら、そのまま講義を中止してしまった」


 これは西條八十自身も自著に記している有名なエピソードであるが、ここに所謂「知識人と大衆」の問題が集約されているといっていい。学生たちの笑いに八十を揶揄する意図はまったくなかったろう。ランボオの講義とチンドン屋の「東京行進曲」との落差、その落差の当事者が眼の前にいるという偶然に笑いをさそわれたにすぎまい。だが、それが流行歌でなくチンドン屋の演奏でなかったならどうだろう。仮定の話はさておくとしても、学生たちの親愛の情にみちた笑い声に何食わぬ顔で応接した八十の心は、そのとき毫も波立たなかったろうか。
 終始大衆の心情に寄り添いながら生涯を全うした稀有の知識人の胸の底ひに如何なる深淵がぽっかりと口をあけていたのだろう。西條八十について一冊の本を編集した私に、その謎は愈々深まるばかりである。


大遺言書

大遺言書

*1:「いくつもの死を見送って」、『大遺言書』新潮社、二〇〇三年。

*2:塚本邦雄『玉蟲遁走曲』白水社、一九七六年。

*3:村上菊一郎『随筆集 ランボーの故郷』小澤書店、一九八〇年。