かなしみを刺す夕草雲雀――塚本邦雄論序説(4)


 先述の現代詩手帖特集版「塚本邦雄の宇宙」に永田和宏が「塚本年譜の意味」なるエッセイを寄せてゐる。永田は、かつて「國文學」に掲載された政田岑生編の塚本邦雄年譜を目にして、大きな衝撃を受けたといふ。それまで塚本の来歴はほとんど謎に包まれてゐたが、「それこそが塚本邦雄の短歌史的意味」であつた。すなはち、歌と作者とは別個の存在であり、「歌われた〈われ〉は、必ずしも作者個人と重なるものではないというのが、寺山修司岡井隆によって理論づけられてきた「前衛短歌」の〈読み〉の基本であり、それを最前線で実践してきたのが塚本邦雄なのであった」。しかるに、なぜ年譜など明らかにする必要があつたのか、永田をはじめとする若い世代の歌人たちは「年譜発表の是非について、侃々諤々議論をした」ほどであつたといふ。
 この「國文學」とは、昭和五十一年(1976)一月号「特集・美の狩人――塚本邦雄寺山修司」だらう。その二年後、京都で催された「極」(塚本、寺山、岡井らの同人誌)の「同窓会」に招かれた永田は、年譜を発表したのはなぜかと塚本に問ひ質した。塚本は短く「意味がないからですよ」とのみ答えたといふ。永田のエッセイはさらに塚本の歌の解釈をめぐつて、現実の塚本と重ね合せた鑑賞の是非を問ふのであるが、ここではその問題に深入りしまい。塚本は永田の問ひに対してたんに韜晦したに過ぎないかも知れないが、同時に、生身の塚本邦雄など、況んや年譜など歌と何の関はりがあらう、載せたければどうぞご随意に、といふほどのつもりであつたのだらう。そんなことに衝撃を受けるといふのもどうかと思ふが、「裏切られたなどと口走る者もなかにはいた」といふから、それほど真摯に「前衛短歌」に殉じてゐたといふことだらう。なにやら血気盛んな志士を思はせて微笑ましい。
 さて、その年譜に戻れば、大正九年(1920)八月七日に生を享けた邦雄は、昭和二十六年(1951)八月七日、第一歌集『水葬物語』を上梓する(日付は奥付のもので、実際の刊行は十月)。前年の十二月に合同歌集『高踏集』が刊行されてゐるが、そこに掲載された「クリスタロイド」七十六首のほとんど(一首を除いた七五首)が『水葬物語』に、推敲を施されて収録されてゐる。したがつて『水葬物語』以前の初期歌篇として公刊されたものは、先述の『初学歴然』(1985年刊)と『透明文法―「水葬物語」以前』(1975年刊)の二冊といふことになる。
 『初学歴然』は、昭和十八年(1947)から昭和二十三年(1948)にかけて歌誌「木槿」に発表した二百八十四首とその他の七首、計二百九十一首からなり、数首は『水葬物語』に採られ、また、五十首余が『透明文法』と重複してゐる(全集第三巻、北嶋廣敏と堀越洋一郎の「解題」に拠る)。前回推測したやうに、『初学歴然』に収録されたものより以前に「木槿」に発表されたものもあり、昭和十六年から十八年にかけてのおそらく数十首が最初期の歌といふことにならうか。
 一方、『透明文法―「水葬物語」以前』は、「木槿」「青樫」「オレンヂ」、同人誌「くれなゐ」、それに「短歌研究」に発表した三百首からなる。それ以降の歌は、杉原一司と創刊した「メトード」に発表され、『高踏集』、『水葬物語』に推敲のうへ収録されることになるわけで(異同は前述の「解題」に詳しい)、おほかたこのあたりまでが初期歌篇といふことになる(ただし、『透明文法』には『水葬物語』以後の歌も若干ながら含まれてゐる)。残念ながら『透明文法』には初出誌の記載がないけれども、『初学歴然』と『透明文法』とを比較してみれば、誰もがあることに気づかざるをえないだらう。『初学歴然』の歌はのちの塚本邦雄の歌とは相当の懸隔があるが、『透明文法』の歌は『水葬物語』へと、即ちわれらが塚本邦雄の歌へとつづく「いつぽんの道」であるといふことに。そして『透明文法』の歌を「潔く切捨てる」(『透明文法』「跋」)ことによつて『水葬物語』が生まれたといふことに。杉原一司との出会ひがなければ、青年邦雄は、あるいは『初学歴然』の道をひた走り続けたかもしれない。たとへば、


 敗れ果ててなほひたすらに生くる身のかなしみを刺す夕草雲雀
                        (昭和二十一年十二月)


といつた道を。それを想像してみることは愉快でなくはないのだけれども。
 杉原一司との運命的な出会ひは昭和二十二年(1947)まで俟たねばならない。だがその前に、もうひとつの出会ひ、歌誌「青樫」との邂逅について語らねばなるまい。