ただわびすけといふは冬の花――塚本邦雄論序説(9)


 卓上に旧約、妻のくちびるはとほい鹹湖の暁の睡りを


 歌誌「玲瓏」第六十号(2005年2月)の座談会<『水葬物語』それ以前>*1において林和清は、塚本邦雄の上掲の歌に対する杉原一司の「何という有機的な語の配分だろう」「意味と感覚の交錯の中の叙情か」といふ批評を紹介し、五七五七七といふ「器の中へ語を配分していく意識」、「配分することで言葉によって一つの世界を構築しているという意識」は、当時では杉原と塚本の二人にしかなかつたものであると述べる。それを受けて尾崎まゆみは、「塚本邦雄の句と句のつながりって芭蕉の俳句からきている感じがあるじゃない」といひ、杉原のいふ「配分」は俳句の「配合」の影響があつたのではないかと推測してゐる。
 措辞の配合が一句(一首)をいかに左右するかといふ点において、邦雄が芭蕉の俳句技法、就中取合せに学んだであらうとする尾崎の推測は強ち的を外れてはゐまい。尾崎はそれ以上述べてゐないが、それはあるいは、邦雄が最初に入会した短歌結社「木槿」の影響であつたかもしれない。「木槿」は先述したやうに太田水穂が創刊した「潮音」から分かれた歌誌で、水穂はいふまでもなく芭蕉に傾倒し、自らの短歌に芭蕉の句風を積極的に導入したことで知られる歌人である。塚本はのちに「潮紅いかに――私の『潮音』体験」*2において、昭和十三、四年頃、「潮音」に掲載された「前月抄」佳作おほよそ六百五十首のなかより鮮やかに記憶に焼きついた歌を二十六首、「今でも数首を除いて読人知らずである」と引用する。なかより、塚本が太字で強調した七首を以下に掲げる。


 懊悩の月日の果てに冬ありて無垢純白の雪ぞふりくる
 いざさらば雪見にころぶところまで夕茜さす方は露西亜
 太き手をわれのうなじにおきたまひいかにと言ひし別れまつりぬ
 白雲に羽をぬらして来し鶴かわれのこころはそよぐばかりなり
 七尺にあまる鶏頭を鉄鉢に火焔のごとく生けたまひけり
 われ若く思索のとびらほのぼのとひらかれし日の銀の鍵なれ
 麦笛は麦の穂波を渡り来てわが半生の悲しみを吹く


 若き邦雄はこれらの歌に強く惹かれ、「稚拙な本歌取すら試み」たといふ。そしてかう記す。


 「私の目に「潮音」の歌はあまりにも明快であり、濃艶であり、かつ閑雅であつた。そしてその特長ゆゑに私を酔はせやすらがせた。極く大雑把に当時の印象を綜合するなら、俊成以後の「幽玄」から芭蕉以後の「寂」を貫ぬく「あはれ」の近代的結実であり、象徴手法の、短歌における、比較的に卓越した一典型と思はれた。そして、典型の焦点には前記前月抄の白眉二十六首を更に凌ぐ左の作品があつた。私は「潮音」バックナンバーの中でこれにめぐりあつたことを今でも感謝してゐる。」


と、十首引用する。ここでも塚本が太字で強調した三首のみ以下に掲げる。


 思はぬに路をよぎれる薮雉子(やぶきぎす)曳く尾のひかりやがてかくれし
 わが頬にかみそりの刃の匂ふとき燕(つばくろ)のこゑの微かにゆらぐ
 看護婦の幼さびしてとりし蝉透き翅(は)のみどり涙ながれたり


 作者は木本通房。塚本がこれらの歌に出会つたとき木本はすでに三十六歳で他界してゐた。塚本は、薮雉子の歌に定家の「山鳥の尾のしだり尾に」を思ひ浮べるといひ、上句の山中の一点景を秀抜な附句が「この世のものならぬ眺めに転じた」といひ、「末尾の「し」は、引く尾の細みと光である」といふ。「もし優におもしろく、にほひかつひびく狂言綺語、虚を以て実に迫り、迫りおほせてこれを越えるのが「潮音」短歌の真髄とするなら、木本通房はそれを会得示現した稀なる一人であつた」と断ずる。「余情妖艶、有心、拉鬼の体、さび、わび、にほひ、うつり、かるみ、悉くわが意にかなふ」。一時はそれほど心酔した「冷やかに煌めく絶唱群」にも、邦雄はやがて背を向ける。なぜか。「昭和幽玄の実体は脆く旧びれた前時代性を引き」ずり、新古今の歌人たちにあつた「鋭い生の問題、重い疑問と詠嘆」は影を潜め、つまるところ、かつて述べたやうに下条義雄の「繊細な詠唱が一歩また一歩と過去に向き、つひに明日への糧、跳躍台となり得ぬ」(本連載第六回参照)のと同断であつたからにほかならない。


 わが世にはつひに逢ふべき人ならずただわびすけといふは冬の花


 「これも亦「潮音」幽玄の到り得た一つの境地ではある」と塚本はいふ。作者は大井廣。余談ながら、塚本のこのエッセイで出会つて以来、この侘助は私の愛誦してやまぬ歌の一つであり、『きさらぎ』(昭和七年)、『悲心抄』(昭和十年)と大井廣の歌集を虱潰しに当つてみたが、この歌を見つけること叶はず、剰へこれ以上に心をふるはせる歌にも廻り合へなかつた。塚本はいふ。


 「点睛は勿論下句にあり、それも「いふは冬の花」の「は」にすべてをかけてゐると言つてもよい。言葉は旧きを求め、危く王朝を錯覚するくらゐ雅致を湛へてゐる。そして心も亦、古、新を越えた曰く言ひがたい交霊交感の境地を捉へてゐる。にも拘らず、これを今日の歌として掲げ、みづからの理想となし得ぬのは何故か。」


 その理由を塚本は木本通房の歌の弱点にも通じる「新に似てたちまち古び、酔はせつつすみやかに飽かせる通俗美学のせゐ」としてゐるが、その件りは聊か説得力に乏しい。むしろそれに続く、「一座の連衆の共感」を頼みとする「狎れあひ」が、「歌が俳諧へ傾斜しようとするとき、連帯感とか唱和とかいふ美名の影に、必ずつきまとふ弊に他ならぬ」といふ点に批判の主眼はあらう。「短歌の上句が脇を頼む発句、下句が発句に従ふ脇であつてよいはずはない。更にその下句がこれに連なる付句を得て始めて味到可能な状況で放置さるべきではあるまい」。すなはち「潮音」一流の俳諧的文体、幽玄体の臭みに対する批判にそれは他ならぬが、これは塚本にとつては一種近親憎悪にも似た思ひであつたらう。
 かつて吉本隆明は塚本を批判しつつ、新古今集は俗謡に追いつめられた和歌の危機的状況の産物なのだと説いたことがあるけれども、和歌の頽廃は俗謡ではなく連歌の浸潤によるものだといふのが塚本の説で(「後鳥羽院主催の有心無心連歌の隠微な影響は、定家、家隆らの歌の三句切作品に十分みとられる」)、それが「潮音」の作者たちにも見られると塚本はいふ。大きな問題なのでここでは深入りを避けるが、塚本自身の歌に見られる疎句仕立、二物衝突といつた技法も、その観点から仔細に検討してみる必要はあらう。ともあれ大井廣の侘助も「点睛は勿論下句にあ」るとしても、「下句が発句に従ふ脇」である感は否めず、「侘助やつひに逢ふべき人ならず」と発句に仕立てることもまんざら不可能ではなからう。
 かうして塚本は一時は心酔した「潮音」の歌人たちをものみな最終的に否んだのち、「「潮音」の系譜から咲き出た巨花」、藍より出でて藍より青き葛原妙子に出会ひ、「幻を視る」詩歌の正道を「私も亦同じ地平から旅立たうとしてゐた」と結語する。「試行錯誤の最初のささやかな公示『水葬物語』は昭和二十六年八月、(葛原の第一歌集)『橙黄』に後れること十箇月であつた」と。


 わがうたにわれの紋章のいまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる
                                        葛原妙子

*1:<玲瓏二十周年に向けて『水葬物語』それ以前/塚本邦雄作品 座談会?つづき>出席者は、大塚みゆき、小黒世茂、尾崎まゆみ、小林幹也、林和清、山城一成、塚本青史

*2:『非在の鴫』人文書院、昭和五十二年