許すべきなにもなけれど――塚本邦雄論序説(8)


 下条義雄(げじやうよしお)の第一歌集『春火』を読む。昭和二十五年十月二十五日、青樫発行所刊行。
 刊行の翌年、邦雄は「青樫」(昭和二十六年四月号)にこの歌集の書評を書いてゐる*1。タイトル「瞬歌」はいかにも言葉遊びの好きな塚本らしいが、後年の、独自の審美観に基づく断言に充ちた凛冽な文体と較べると、聊か弛緩したところの見える若書きといはねばならない。のちの塚本なら「私の思い過ぎであろうか」「ような気がする」(原文まま)などといふ措辞は決して用ひはしなかつたらう。前々回述べたやうに、およそ二十年後に塚本は「火箭消えて――下條義雄「春火」追想*2なる一文をしたため下条義雄についてさらに精緻に論ずることになるのだが、そこでは「匿れた宝石」を世に顕彰するとともに、かれの限界をも厳しく指摘してゐる。
 だが、それにしても『春火』はみごとな歌集である。第一歌集にしてこれほどの充実ぶりはただごとでない。「火箭消えて」において塚本が五十首余もの歌を撰出してゐるのがその証であらう。


 「彼は作品のサブタイトルに聖句かリルケの詩の一節をかならず掲げ、標題にも愛するベートーヴェンの第四を冠し、ショパンの楽想を用語として鏤め、一方で「青樫」誌上に「新古今」の注解を連載した。……
 リルケと定家、これは複数として考へる方が妥当であらうが、その時間と空間のあやふく結ばれる一点で彼の言葉の花は咲き、祈りは深い淵に谺したのであらう。歌集「春火」の中に私は往時の「青樫」の悲愴な孤絶と、脆く儚くそれゆゑに比類のない歌群の露頭をふたたび見る。幾度顕彰し記念してもしすぎることはあるまい。」(「火箭消えて」)


 『春火』は三部立て、昭和十四年から二十五年に到る作品のなかから自撰したものだが(長歌も含む)、戦中の五年間、即ち第二部と第三部の間は作歌を中断してゐたと跋文にある。歌集一巻のエピグラムにロマ書より「われかつて律法なくして生れたれど、誡め来りし時罪は生きかへりわれは死ねり」を掲げる。各部の扉に記されたリルケの詩はそれぞれかくのごとし。


 「これが自負だといふならば、自負させて下さい。/こんなに厳粛にまた独り/あなたの雲の額の前にたつ/私の祈祷のために」(第一部)
 「お前が歌ひ出したことを忘れよ、/それは消え去るであらう。/真に歌ふのは他の息。/何のためでもない息だ。/神のなかのさやぎだ。風だ。」(第二部)
 「言葉は峭壁/その背後の常盤の山にこそ深いここ/ろは輝くのだ。」(第三部)


 各部の始めに序歌を配したのが本歌集の特徴であると作者は附記してゐる。第一部巻頭の序歌と「少年の日」八首を引用しよう。

  序歌
 春来ればまた生くる日を美(は)しといふ光る若葉もとく萌えいでよ
  少年の日
 神ありとつゆ知らなくに少年の眉びきとほく雲を仰ぎし
 火山系北にきはまりゆくところわがゆきし村ありて雪をふらしつ
 花の散るかなしさなどはひと恋ふるねがひに秘めて幼かりしか
 指揮刀に雑木(ざつぼく)の花はらひつつ駆け下りし頃か五月の平野
 火箭(ひや)ひとつ中空(なかぞら)たかに燃えさかるただ真昼のみわが世界なれ
 何に恋ふるこころの谷を流れゆくセロの音(ね)のあり雲雀が鳴くも
 初夏(しよか)の空よ若きいのちのかずしれぬかなしみよ翔べよ嘆きあへぬと
 しんと照る坂のまひるのきびしさにせめて真紅(まつか)な花ころがさむ


 塚本は「火箭消えて」で、「火山系」「火箭ひとつ」「初夏の空よ」「しんと照る」の四首を撰し、前二首はゴチックで強調してゐる。だがその他の四首も少年時代の淡い憧憬を水彩画のやうなタッチでカンバスに定着してみごとである。愛誦するにたる青春歌といへよう。
 前々回掲出した「さむるなき死の夢にしあれよ」は、第二部の「氷雨の歌」一連に見える。「復讐は我にあり、我これを報いむ」のエピグラムが附されてゐる。冒頭の四首を掲出する。


 木下道ゆれつつ聞けばはるかにて追憶は葉にうすれゆきたる
 枯れ笹のむらがり咲くは野に眠りさむるなき死の夢にしあれよ
 愛著はいづれかなしき冬に入り傾きて立つ八つ手の花と
 山茶花に透きて散りくる白きものわが若き日の凱歌にはあらぬ


 塚本は「枯れ笹の」「愛著は」の二首のみをゴチックで掲出してゐるけれども、他の二首も撰するにたる名歌と思ふ。青年邦雄は「数度作者に見(まみ)える機を持ち得た。兄事することも可能な時と処に恵まれてもゐた」といふ。


 「しかし見えながらつひに交ることはなく、冷やかに敬愛の念を持するに止つた。彼我の血のまじりあふことを本能的に嫌悪したのであらう。今これらの作品を懐旧の情とともに顧みる時、それも当然のさだめと思ひ入る。」


 杉原一司が「やつと戦後の短歌と呼べるやうな歌がここに一首見つかつた」と下条義雄の「ジャン・コクトオの映画来りて国の冬やうやく詩(うた)の花咲くおもひ」を差し出したとき、邦雄は戦争末期「青樫」誌上で下条の歌に出遭ひ「諳んずるくらゐ愛誦した」ことを杉原に告げるのを憚つた。彼我の血とはなにか。「西欧的カトリシズム」と「リルケを頂点とする西洋近代詩」、そして「新古今、それも六百番歌合から千五百番歌合に到る良経、定家らの文体」――歌集『春火』のこれらの「背柱」は若き邦雄にとつて諸刃の剣であつたらう。先述の歌集評「瞬歌」で邦雄は書いてゐる。


 「一度も神を信じたことがなく(宗教的な意味で)、聖書を文学的にだけ摂取し、リルケを読んで、ついにリルケに親しまず(あまりにもそれは遠距離的存在である)、詩に於ける唯心論から、できるだけ隔絶することによって一つの方向を求めようとする、即ち、『春火』とは凡そ異った次元に生きる自分が、この歌集に言及することは、大きな冒瀆であったかも知れない。」


と。エホバの顔を避けて邦雄は旅立つた。天路か冥界へか。次回、ふたたびウェルギリウスとの出遭ひの地点に立ち戻ることにしよう。


 許すべきなにもなけれど許せよといひにしかなし雪は降り来も      下条義雄

*1:『詞華栄頌』審美社所収、一九七三年

*2:「火箭消えて――下條義雄「春火」追想」、『煉獄の秋』人文書院所収、一九七四年