皐月待ちゐし――塚本邦雄論序説(3)


 塚本邦雄はいかにして塚本邦雄となつたか。『水葬物語』でデビューを果たすまでの邦雄の足跡をたどりながらそれをいくらかなりとも明らかにしてみたいといふのが本論の意図であるのだが、書き始めてある困難に逢着することになつた。邦雄の閲歴にかかはる真偽、「年譜」における齟齬である。
 前回、敢へてふれなかつたが、邦雄の閲歴については塚本邦雄全集別巻の年譜の記述にしたがつてゐる。塚本邦雄全集全十五巻は一九九八年に刊行が始まり、二〇〇一年六月、別巻の刊行をもつて完結する。従来おほやけにされてきた年譜が事実と異なるといふことは一部の人には知られてゐた。むろん別巻の年譜作成者にもその齟齬は意識されてゐた筈であるが、敢へて従来の記述を踏襲したのはこの時点に於いて塚本邦雄本人が存命であつたからにちがひあるまい。事実に基づいた「正しい」年譜は、塚本の死後に刊行された現代詩手帖特集版「塚本邦雄の宇宙」に附された松田一美編になるものであらう。
 すなはち、全集版で大正十一年生れとなつてゐるのは正しくは大正九年であり、邦雄は彦根高商へ入学せず、旧制中学を卒業後、就職し、呉の海軍工廠へ徴用されたのも昭和十六年の夏、二十一歳になつたばかりの頃といふことにならうか。そもそも学徒動員は昭和十八年以降のことであつて、昭和十七年に旧制高校生が徴用されることはありえない。塚本は盟友寺山修司の顰に倣つて虚構の履歴を流布しひとり北叟笑んでゐたにちがひあるまい。『水葬物語』を刊行したのは三十一歳の誕生日で、それを読んだ「短歌研究」編集長中井英夫が邦雄を歌壇に向けて新人としてプッシュする際に二歳さばを読んだといふのが、「塚本邦雄の宇宙」座談会での篠弘の推測である。おほかた篠の推測どほり、黒衣の策士中井英夫の「策略」であらうが、さて、さうだとすれば、ここにひとつ看過できない疑問が生じることになる。
 「木槿」に入会したのは昭和十七年、そして翌十八年五月号に出詠した「無題」八首より邦雄の歌歴は始まる――のちに公刊された『初学歴然』ではさうなつてゐるのだが、現代詩手帖版の年譜に従ひ「木槿」への入会を昭和十六年だとすると、出詠までにおほよそ二年近くの空白が生じることになり聊か不自然である。初出詠以後は毎月のやうに出詠してゐる邦雄が、入会後二年近くも出詠しなかつたとは考へにくいからである。だとすれば、『初学歴然』に収められた十八年五月以前の歌がおそらくまだ相当ある筈で、前回ふれた「鬼百合」の歌などもその一つだらう。当時の「木槿」を仔細に調べれば明らかとなる筈だが、残念ながら私にその余裕がない。このあたりは嚮後の研究に俟ちたいと思ふ。


 これに関連して二三気づいたことを書いておかう。件の座談会での篠弘の発言によれば、昭和十八年から十九年の「短歌研究」誌の選歌欄に塚本邦雄の歌が二首掲載されてゐるといふ。そのうちの一首は十九年五月号で前田夕暮が「秀逸」に推したもので、次の歌である。


 冬湖のきびしき鳴りや死ぬことをみつめて明日は征く友とゐる


これは、昭和十九年一月三十日に行なはれた「木槿」の歌会に邦雄が出詠した次の歌、


 冬潮のきびしきひかり眸(まみ)にあり明日征く友の深く黙(もだ)せる 
                         (青野春人氏を送るの詞書、『初学歴然』)


を改作して投稿したものだらう(「冬湖」は誤記か)。友の出征を送る歌は、昭和十八年、十九年の歌会にも見える。「短歌研究」への投稿は篠のいふやうに二首のみかどうか、そのあたりも興味のあるところである。

 もう一つ、その座談会で、「玲瓏」六十一号に掲載された塚本邦雄の最後の歌、


 皐月待つことは水無月待ちかぬる皐月待ちゐし若者の信念


について、篠弘は次のやうに語つてゐる。


 「「皐月待つことは水無月」とここで切れて、「待ちかぬる皐月待ちゐし若者の信念」と。木々の芽吹く瑞々しい五月を待望する若者、その信念に自分も準(殉の誤植か)じたいという歌でしょう。「水無月」は雨にわずらわされる陰湿な月ですから、華やかな五月を待つのはたいへん息苦しいことだと詠んでいます。」


 これを二句切れと取ることには無理があらう。島内景二の説によれば、「皐月待つこと」は「皐月待つごと(如)」で、「皐月待つごとは水無月待ちかぬる」で切れる。すなはち、皐月を待つやうには水無月を待つことはできない、の意である、と島内はいふ。そのとほりだらう。「玲瓏」会員の小黒世茂が、現代歌人協会会報一〇四号に書いた「塚本邦雄先生をしのびて」といふ文章に詳しい(小黒のサイト「素足で参れ」で読むことができる)。小黒は「『伊勢物語』の物語中歌、「五月〔さつき〕待つ花橘の香〔か〕をかげば昔の人の袖の香ぞする」が想起される」とも書いてゐるが、本歌取りといつていいかと思ふ。小黒によれば、島内は塚本邦雄が和歌を揮毫する際に濁点を附けなかつたことからこの解釈に行き着いたといふ。
 歌の解釈は難しい。わけても塚本邦雄の歌にはさまざまなたくらみが秘められていよう。さまざまな「読み」を突き合はせることによつて歌の世界はさらに豊饒になり、ときに作者の思惑を超えた広がりをもつことにもならう。塚本邦雄の遺した厖大な歌は現代短歌に捧げられた聖なる供物である。これを読み解き、かつ享受することなくして嚮後の短歌の豊饒は望めまい。
 いはずもがなの註釈を施すことになつたが、次回、ふたたび青年邦雄の足跡をたどつてみることにしたい。