新しき帽子の翳に――塚本邦雄論序説(7)



 昭和二十二年(1947)、青年邦雄は「オレンヂ」に入会する、と年譜にある*1。「オレンヂ」は前年の昭和二十一年十一月に創刊された歌誌。前川佐美雄が昭和九年に創刊した「日本歌人」が昭和十六年八月号をもつて休刊し、戦後、名を変えて創刊したもので*2、創刊号の編輯後記に、「旧「日本歌人」を母体とする、新しき「香橙社」が組織せられ、ここに「オレンヂ」の創刊を見るに至つた」とある。日本浪漫派に傾倒し、前川佐美雄、斎藤史、坪野哲久らの歌に心酔してゐた邦雄が、復刊なつた「日本歌人」に勇躍加はつたのは当然の成り行きだらう。
 のちに邦雄は、坪野哲久論「われきらめかず」*3で次のやうに記してゐる。


 「『新宴』の、

   波斯(ペルシヤ)びとオマール・カイヤムの古ごころ蝶のねむりといづれあはれぞ

 をむすびとする蝶の一連を、前述の「オレンヂ」誌上で発見したとき、ぼくは殆ど涙ぐむ思ひだつたことを告白しよう。同じ誌上に史は、「杳かなる湖」を発表し、客員、五味康祐芥川賞の予感も無い「アネクドート」なる神秘的エッセーを連載し、ぼくは短歌の初等修辞学を営々と学んでゐた。」


 『新宴』は哲久の第四歌集。昭和二十二年七月、臼井書房刊。臼井書房は京都在住の臼井喜之介の経営する出版社で、「オレンヂ」を発行する香橙社もまた臼井書房に置かれてゐた。邦雄が「オレンヂ」誌上で哲久のオマール・カイヤムの歌に出会つて思はず差し含んだのは、戦時中、治安維持法違反で検挙された「プロレタリア歌人」が、「プロレタリア歌人でなく、歌人であり、左翼作家でなく、作家」であつたことを、即ち『新風十人』の、そして『桜』の歌人で今なほあつたことをこの歌によつて再確認したからであらう。
 斎藤史の「杳かなる湖」は、のちに斎藤史全歌集に「未刊歌集 杳かなる湖」として収載され、塚本邦雄は解題「残紅黙示録」に次のやうに記してゐる。


 「「オレンヂ」は光彩に溢れてゐた。そしてその光源の一つは紛れもなく斎藤史であり、その作品は「杳かなる湖」であつた。私は三十年後の今日も、悉くその時覚えた通りに諳ずることができる。」

  西空のうすれて黄なる映ろへば湖(うみ)も年経(ふ)るなげきを歌へ
                                            史


 「オレンヂ」は前川佐美雄、斎藤史、坪野哲久、石川信雄、神山裕一、中川忠夫を主要編輯同人に、亀井勝一郎、中谷孝雄、田中克巳、山田あき、伊藤佐喜雄、小高根二郎、臼井喜之介ほかを編輯同人に擁し、創刊号には新村出の「オレンヂに寄す」、佐佐木信綱「奈良」といつた散文や、吉井勇の短歌、山口誓子の俳句も掲載する堂々たる布陣である。おそらく前川佐美雄の手になるものであらう無署名の巻頭言に、かつての「日本歌人」では、浪漫精神、近代主義、藝術主義を掲げてきたが、今後は、作品主義、同年代との均力、デモクラシイ、個性の自由、言論の自由、の「五つの点に注意して行くべきだ」と述べてゐる。
 編輯同人以外の出詠は、香橙作品三十六名、同人作品三十七名、オレンヂ詠草九十八名。香橙作品には小説家大西巨人*4や、のちに邦雄がライバルと目する船津碇次郎*5の名も見える。抄出しておかう。


 島を巡るやしみじみ蒼き潮の香にうら若かりし骨を埋めしか
 夜半の鐘に菊花沈もるかそけさを或ひは云ひて嘆きしものを
 秋四年いくさに死なず還りきて再びはする生活(いき)の嘆きを
                                        大西巨人


 夕づつは燦めき沈む合歓かげの瞳にむかひウエルテルになる
                                        船津碇次郎


 そして同人作品のなかに、夫人の令子とともに杉原一司の名がある。一司出詠の五首をすべて掲出しよう。


 かつて我身をゆさぶりし激情のかへりくる日は虹かかりをれ
 夏の陽に焼かれて日日をあるばかり石は花々のやうに開かず
 わが夢をあざむくものの中にありてひとつだけ清き夏空の雲
 血液にひそめる菌のかたちなど思ひつづけてねむり入りたり
 うろこ雲のびゆく夏の陽ざかりに花はま白く咲くをおそれず
                                        杉原一司


 哲久のオマール・カイヤムの歌は創刊号の「朝月抄」十首のうちの一(表記は歌集と若干異なる)。従つて邦雄は一司の五首も目にしたはずで、これがおそらくは一司の歌との最初の出会ひといふことにならう。翌る昭和二十二年一月一日発行の「オレンヂ」第二号には、同人作品に一司三首、活字のポイントを落したオレンヂ詠草に邦雄三首、山中智恵子二首がある。奥付の一月一日発行が実際にいつの発行であつたか不明ながら、第二号に出詠してゐるといふことは昭和二十二年の入会でなく、前年十一月の創刊直後に邦雄は既に入会を果してゐたにちがひない。一司、邦雄、智恵子の歌を掲出する。


 薄いコップの縁に残せる指紋など忘れて夏の陽ざかりを野を
 ぴつたりと掌を伏せ白壁の冷たさをしきり集めゐるなり
 文字もたぬ昔むかしの人らにも愛をあらはす行ひありし
                                         一司


 夕靄に枇杷すら匂ふを額上げてわかもの言ふは稀となりにし
 微かなる轍の跡の薄氷に再た影うつして帰ることなし
 新しき帽子の翳にけふの日のやつれは秘めてわが巷ゆく
                                         邦雄


 霧雨のやうやく晴れてやはらかき桐の葉の上に青虫ねむる
 海に続く徑の一すぢを黙しゆけば浜豌豆のさやはほぐれぬ
                                         智恵子


 邦雄の「新しき帽子」は、「木槿」(昭和二十一年七月号)に出詠した「新しき帽子の下に一日のつかれを秘めぬ合歓凋む夕に」を改作したものだらう。
 前川佐美雄は主宰の言葉で、「二冊編輯してみて大体分つて来た。新人の中に恐るべき作家がひそんでをり、反対に旧人がぼんやりしてゐるといふ風なのも若干目につくところである。怠るものは勝手に怠けるがよい。努力するものだけがいつでも最後に輝くといふのは分り切つたことだ」(「奈良便」)と記してゐる。恐るべき新人とは誰のことか。少なくとも邦雄でないことは、「短歌の初等修辞学を営々と学んでゐた」かれ自身が切歯扼腕しつつたれよりもよく自覚してゐたことだらう。

*1:講談社文藝文庫版『定家百首・雪月花(抄)』巻末の島内景二編の年譜。「この年、歌誌「日本歌人」(前川佐美雄主宰)に入会」。全集別巻及び現代詩手帖特集版「塚本邦雄の宇宙」の年譜には、いづれも「『日本歌人』に短歌を発表」とのみ。

*2:昭和二十五年、「日本歌人」に再び改称。

*3:塚本邦雄『定本 夕暮の諧調』所収。

*4:この頃、九州の地で雑誌「文化展望」の編集に携つてゐた大西巨人は、信州の林檎小屋に棲む斎藤史に原稿を依頼してゐる。処女作「精神の氷点」の執筆に余念なかつた頃である。

*5:船津碇次郎は合同歌集『高踏集』のメンバーで、塚本邦雄の歌壇へのデビューである「短歌研究」(昭和二十六年八月号)の「モダニズム短歌特集」にも出詠してゐる。