続・孤島へ持って行く本――『郷愁の詩人 田中冬二』



 孤島へ持参した本のなかから、もう一冊について書いてみよう。和田利夫『郷愁の詩人 田中冬二』(筑摩書房・1991)。


   1

 わたしは田中冬二の詩のよい読者ではない。なのになぜA5判・450頁もある浩瀚な評伝を読んでみる気になったのか。それは大正から昭和初期にかけての詩人たちの交流が本書につぶさに語られているからである。師である堀口大學、冬二を見出した長谷川巳之吉、生涯の親友であった井上多喜三郎、そして高祖保、岩佐東一郎、城左門、八幡城太郎等々といった詩人俳人たちとの交流について書かれた本をいまこの時期に読もうと思ったのは、高祖保の詩集『雪』を偶々古書展で入手し、それについて短文を草したことが機縁となっている。おもしろいものだな、と思う。貧弱なわが蔵書のおそらく九割は未読のままだが、こういうことがあるからなかなか処分できないでいる。
 さて、田中冬二は生れてはじめて書いた詩を詩誌「詩聖」に投稿し、それが編集者長谷川巳之吉の眼にとまり、詩人として歩み始める(大正十一年/1922)。冬二は大阪の第三銀行支店に勤める銀行員だった。同時に採用された投稿詩は三篇、あとの二人は加藤愛夫、森三千代。巳之吉の眼の確かさを証だてているといえよう。巳之吉自身も同誌に詩を発表したが実作者としての資質に乏しかったことは、長谷川郁夫が巳之吉のこれも浩瀚な評伝『美酒と革嚢』(河出書房新社・2006)に辛辣な評言とともに掲出した巳之吉の詩を瞥見すれば明らかである。巳之吉は冬二の詩に惚れ込み、のちに創業する第一書房より冬二の詩集をつづけて刊行することになる(第一詩集『青い夜道』、第二詩集『海の見える石段』、第三詩集『山鴫』)。
 冬二はやがて堀口大學に師事し、青柳瑞穂、岩佐東一郎、城左門らとともに大學一門の四天王と呼ばれるに到るのだが、こうして冬二の足跡を逐一辿っているときりがない。わたしがこの本を読んでとりわけ興味を覚えたところをのみ摘記することにしよう。


    2

 詩集『山鴫』(昭和十年/1935)の巻頭に「故園の萊」という一行詩がある。本書に抜粋されているなかから数篇を写してみると、


 菊 菊膾 山辺はしぐれてゐる ああ秋の別れ
 味噌 うす暗い土蔵の中 味噌桶 むかしがゐる
 茶 ものうい晩春のゆふぐれよ
 醤油 日が暮れると田舎の町は真暗だ
 うど 田園の憂鬱
 角砂糖 ジヤン・コクトオ 詩の重量


 本書の著者和田利夫はつづけてこう書いている。


 「総じて言えば、これらは、相前後して関心の度を深めていた俳句との比較で論じられるべき作品であろう。俳句的でありながら、俳句には盛り込めない別種の詩的感性、それが感じ取れるのである。物の形状、内容をあらわす言葉があって、そこから湧いてくる瞬間的なイメージ、それを詩人は掬い取るのである。」


 田中冬二には俳人との交遊があり自ら句集も上梓した。のみならず、岩田潔が「田中冬二論」で指摘するように(本書245頁)、『山鴫』一巻のなかには夥しい季語が登場する。「故園の萊」の一行詩も俳句の技法である二物衝突で説明できるだろう。たしかに、菊や味噌や茶や醤油は冬二の詩の世界の延長上にあるけれども、「角砂糖 ジヤン・コクトオ 詩の重量」はそれらとまったく異質である。わたしはここに冬二なりのレスプリ・ヌーボーの影響のかすかな痕跡をみたいのである。
 『山鴫』に前後して刊行された石川信雄の歌集『シネマ』(昭和十一年/1936)がコクトーの写真を巻頭に掲げていたことを、そして石川が筏井嘉一らと「エスプリ」を創刊(昭和五年)したことを思い出しておくのも無駄ではあるまい。
 昭和三年(1928)、春山行夫の編集する季刊詩誌「詩と詩論」が創刊される。大正末期の旧詩壇の「無詩学的独裁」に慊りぬものを感じていた詩人たちが参加した詩的実験、いわゆる新詩精神(レスプリ・ヌーボー)運動もわずか数年後には北川冬彦らの「詩・現実」、三好達治らの「四季」、春山行夫らの「新領土」、そして北園克衛らの「VOU」等々に四分五裂してゆく。
 本書の著者和田利夫は、『海の見える石段』(昭和五年/1930)巻頭の長篇詩「霙さくら忍冬の花」に「冬二なりの新詩精神(エスプリ・ヌーボー)があったのではないか」としつつも「エスプリ・ヌーボーの気運のなかで(略)冬二は、すくなくとも表面的には、こういう潮流の圏外にいたと言ってよい。関心を持たなかったというのではなく、関係を持たなかったという意味において」と論じている。たしかに冬二には第一書房の雑誌「パンテオン」(昭和三年〜)「オルフェオン」(昭和四年〜)「セルパン」(昭和六年〜)といった発表の舞台があり、やがて「四季」に参加して精力的に詩を発表してゆくのだからあえて「詩と詩論」の詩的実験に身を投じる必要もなかったし、冬二の詩世界は元来そうした実験とは馴染まないものでもあった。「角砂糖 ジヤン・コクトオ 詩の重量」は、そうした間隙にふと漏らした一滴の雫として珍重に値しよう。ひと言附言するなら、レスプリ・ヌーボーは短歌の世界にも影響を与え、先述の「エスプリ」へ、そして前川佐美雄を介して戦後の塚本邦雄に生き続けるのである。


    3

 先述した高祖保との交友にかんして若干書きとめておこう。
 昭和十六年八月十一日、高祖保はかねてより冬二に勧められていた野尻湖へ行き、「湖心にヨットの白帆が動くのを見て、心に浮んだ即興の詩を手帳に書きと」める。その詩とは、


     無題

 野尻湖のうへを 微風が
 そつと愛撫するやうに舐める
 するとちりめん皺をよせて湖はにつとわらふ


 野尻湖のうへを 汽艇(ランチ)一隻
 水脈(みを)を一本 うち曳いてよぎる
 額に竪(たて)皺をよせてほんのすこし湖は蹙(しかめ)つ面をする


 そこへ微風がやつてきて
 そつと湖づらを舐める
 ふたたび湖はにつと微笑む


 その微笑のうへにとまつてやすんでゐる
 三角形の紋白蝶 三角形の
 ああ いつぴきの紋白蝶の三角形…


 この詩は、八幡城太郎の慫慂によって俳句誌「芝火」(昭和十六年十一月号)に書かれた「軽井沢より――丸木小屋・日録」によるが、思潮社現代詩文庫版『高祖保詩集』にも岩谷書店版『高祖保詩集』にも見当らない(ただしいずれも詩集『夜のひきあけ』は抄録なので、そこに収載されているのかもしれないが*1)。この詩の最終連は三好達治の有名な短詩「土」を思わせなくもない。


    土

 蟻が
 蝶の羽をひいてゆく
 ああ
 ヨットのやうだ


 「土」は『南窗集』の一篇で、昭和七年、椎の木社発行。高祖保の詩におけるこうしたウィッティな見立ては珍しくはない。未刊詩集の『独楽』(本書によれば『独楽』は田中冬二の序文を附して刊行される予定であった)に収められた「旅の手帳」は、こうした短詩を二十三並べたもの。なかから一篇を掲出する。


     四

 諏訪の湖あかり――周囲(めぐり)の山が昏れてから、ぽんと一枚、仰むきに置かれた、手鏡。このやうなところに、身だしなみはある。天は洒落(しゃれ)ものだ。


 八月十九日、冬二は軽井沢に高祖保を訪ねる。翌日、ふたりは沓掛を散策し、高原に登る。このときのことを冬二は詩に綴っている。


     遠雷

 僕は白いリンネルの服を着てゐた
 君はうすネズミ色の服を着てゐた
 二人とも同じやうなパナマ帽子を
 眼深に被って つよい光線を避けてゐた
 あかるい軽井沢の夏
  (略)
 僕たちは語った 現実を離れたロマンを
 ノヴァーリス青い花のやうなロマンを
 遠く雷がきこえた
 ――小諸辺だらうね
 その方角を眺めて 恁(こ)う云ひながら僕たちは やっとロマンからかへった


 日米開戦のわずか数か月前のことである。


    4

 冬二の交友について。
 冬二は大正八年(1919)、第三銀行の大阪本町支店に勤務していた頃、銀行内の<草の実短歌会>に所属しており、そこに稲生澯(きよし)がいた。冬二は稲生と「邂逅」「小流」といった回覧誌をつくり、ふたりの交遊は後々までつづいた。稲生はのちに俳句の道へ進むのだが、むろんこの名は俳人としてよりも村山槐多が京都府立一中時代に恋慕した一級下の美少年(「稲生少年像」の水彩画が残る)の名として記憶されている。槐多が稲生へのつけ文を稲生の同級の林達夫に託したことはよく知られている(林は拒絶したのだが)。著者は九十歳に近い稲生に会い、冬二の思い出などを訊ねている。


 昭和十七年(1942)六月、信州諏訪に居住していた冬二は、岩佐東一郎、高祖保、城左門、それに近江から井上多喜三郎、京都から臼井喜之介らを招いて句会を催した。臼井喜之介は京都で出版社臼井書房を営む詩人であり、のちに歌誌「オレンヂ」の編輯同人ともなる(id:qfwfq:20070715)。臼井書房からは冬二や城左門の詩集、坪野哲久、前川佐美雄の歌集などが刊行されている。


 銀行を定年退職した後、冬二は新太陽社に就職する。雑誌「モダン日本」を発行していた出版社である。そこで編集者をしていた吉行淳之介が『私の文学放浪』で冬二の思い出を書きとめている。『私の文学放浪』は、はるか昔に読んだ覚えがあるけれども、まるで記憶にない。澁澤龍彦もいっとき「モダン日本」にいたことがあるが、冬二について何か書き残しているのだろうか。

*1:本書に引用されている、「田中冬二氏に」の献辞がある「軽井沢孟秋」(「琥珀」昭和十七年三月号に掲載)、井上多喜三郎に贈った肉筆詩集『信濃游草』も『高祖保詩集』には未収載。