けふといふ日――魚眠洞余聞

   1

 昭和三十年四月十九日の午前十時頃、久保忠夫は馬込の室生犀星宅を初めて訪れた。犀星から届いた前月二十三日附けの草木屋製の葉書に「御出京の折はお立ちより下さい、午前なら必ず居ります」と書かれていたからである。東北大学文学部国文科の大学院に学ぶ三十歳の書生を犀星は快く迎えてくれたが、午前なら必ず居るのは犀星が午前中を執筆の時間に充てていたからで、それを知って久保は自らの浅慮を悔やんだ。
 卒業論文萩原朔太郎を取り上げた久保は、朔太郎の妹・津久井幸子の面識を得ていた。津久井は、朔太郎について訊きたいことがあるなら犀星に紹介状を書くと言ってくれたが、久保は踏ん切りがつかずそのままになっていた。
 久保と犀星との関わりは昭和二十九年六月、朔太郎の十三回忌に犀星が「新潮」に発表した「詩人・萩原朔太郎」をきっかけに生まれた。久保は読後感をしたためて犀星に送った。もとより返事は期待していなかったが、思いがけず返信が届き、それを機に文通がはじまったのである。犀星が未知の学徒からの来翰に鄭重な返事を書き送ったのは、それが朔太郎の研究者らしい的を射た指摘であったこともあるが、朔太郎とのちに「詩壇の双生児」と称される親交を結ぶきっかけとなったのが、犀星が「朱欒」に発表した「小景異情」に感動した朔太郎が書き送った手紙であった、という事情も関わっているにちがいない。犀星が「詩人・萩原朔太郎」に書いているように、前橋に朔太郎を訪ねて初めてまみえるまで、「二人は恋しあふやうな烈しい感情をいつも長い手紙で物語つた」(『月に吠える』跋)のである。
 久保は、あらかじめ用意していた質問を次々と犀星にぶつけた。犀星は質問にきびきびと答えていたが、ふと後ろを振り向いて、戸棚の抽斗から原稿箋に貼った詩の切抜きを数枚取り出して、「どの詩がいいかね」と久保に問いかけた。久保は、数篇のなかから「けふといふ日」を指し、これがいちばんいいと思うと答えた。犀星は会心の笑みを浮べて「やはり」といった。この詩は、翌る三十一年三月に新潮社から刊行された『随筆 続 女ひと』の「女ごのための最後の詩集」の最初に収められた。
 山口蓬春描く二羽の蝶を表紙にあしらったこの新書版の随筆集は、もともと『随筆 女ひと』に収められる筈の随筆と詩とが頁数の都合で分冊となったもので、そこにさらに「文士の悲しみ」というひとまとまりの随筆が加わり、一冊のなかに二冊の随筆集と一冊の詩集とが同居するといった按排の本になっている。「女ごのための最後の詩集」の「序」で犀星は、「をみなごのための最後の詩は、文字どほり私にとつて、もはや詩らしいものに乗り移ることの終りの仕事なのであらう」と書いている。


   「けふといふ日」


 時計でも
 十二時を打つときに
 おしまひの鐘をよくきくと、
 とても 大きく打つ、
 けふのおわかれにね、
 けふがもう帰つて来ないために、
 けふが地球の上にもうなくなり、
 ほかの無くなつた日にまぎれ込んで
 なんでもない日になつて行くからだ、
 茫々何千年の歳月に連れこまれるのだ、
 けふといふ日、
 そんな日があつたか知らと、
 どんなにけふが華かな日であつても、
 人びとはさう言つてわすれて行く、
 けふの去るのを停めることが出来ない、
 けふ一日だけでも好く生きなければならない。



   2

 久保が魚眠洞を訪れた日の午後、もうひとりの来訪者があった。名を明石敏夫という。明石は、明治三十年、長崎に生れ、二十代で小説家となるべく上京し正宗白鳥を頼ったが、白鳥に芥川龍之介を紹介され、芥川家に寄食することとなる。大正十五年、芥川の尽力で雑誌「改造」に「父と子」を、同年八月「中央公論」に「半生」を発表し、小説家としての足がかりを得るが、昭和二年、小説家への道を断念して帰郷し、そこで芥川の訃報を聞いた。そして芥川の死後二十七年を経て、犀星を訪ねたのである。
 明石の手には重い荷物があった。それはたつきの一切を夫人にまかせて九年がかりで書き上げた千八百五十枚の小説原稿の束で、原稿に折り目がつかないように上下を板で挟み、風呂敷に包んであった。明石は乾坤一擲、この小説で文壇に再デビューを果すべく、犀星に出版社への斡旋を頼みに上京したのだった。
 芥川は、自分に近づく者には有名無名を問わず誰彼となく親切にする人であった。時分時であれば気軽に食事に誘ったし、小説であれば叮嚀に批評をし、出版社に推薦しもした。犀星は、明石は自分の所へなど来ず、芥川をありがたがっている文藝春秋へでも行ったほうがいいと思い、そう言いもした。その原稿の包みを見て、犀星は人に優しくすることの恐ろしさを思った。
 そしてなによりも、虚仮の一心で書き上げたその小説が時流に乗るものかどうかの判断すらつかないのだろうか、と犀星は訝った。


 「君が苦稿十年のかひもなく引き上げて西方に去つたわけは、君自身にもよくわかつてゐたことであらう、若し君にしてこころあらばお天気の良い日に、あれをさつぱりと焼き払つてから片つ端から現代の小説でも読みあさつてくれたまへ、そして若し上京しなければならなかつたら、こんどは三十枚の原稿の綴りを携へて出て来るんですよ、三十枚あれば人生の事は何でも料理出来るといふ私の阿呆陀羅経の信條は、これは君にもおすすめ申したいことだ、三十枚の枚数では何も書けないといふ奴は、何百枚書いてもつひに一枚も書き切れない奴なのだ、三十枚あれば大概の事は書き上げられるのだ、芥川が君を褒めたり、その当時の大雑誌が君の小説を掲せたことは二十七年前のことである。芥川君が生きてゐても、君のいまの小説にはあの日の褒め言葉は言はないであらう。」(「友人の有名」)


 犀星は、重い荷物を手に悄然と立ち去る明石の背を見ながら、千数百枚の原稿の五六枚でも読んでもらえないかと懇願する明石の言葉を、自分もまたいつか遠い日に何処かで口にしたような気がした。


   3

 昭和三十一年二月、犀星が「文藝」に寄せた「友人の有名」を読んだ久保は、明石の落胆はいかほどのものであったか、と思った。と同時に、文藝春秋へでも持って行けという犀星の言葉を、いかにも犀星らしい言葉だと肯った。そして、大学院を出てこれから入ってゆく学界もまた文壇と事情は大差ないだろうと身の引き締まるような思いがした。
 こうして犀星研究をはじめた久保は、爾来三十五年の折々に発表した論攷を纏めて平成二年、『室生犀星研究』を上梓した。



*主要参考文献
  久保忠夫室生犀星研究』有精堂、一九九〇年
  室生犀星『随筆 続 女ひと』新潮社、一九五六年
    同  『随筆 誰が屋根の下』村山書店、一九五六年 など