〔Book Review〕『断片からの世界 美術稿集成』――種村季弘三回忌に


 種村季弘の文章をはじめて読んだのは、おそらく「ユリイカ」に連載されていた「アナクロニズム」ではなかったかと思う。わたしが「ユリイカ」を購読し始めたのは大学へ入った一九七〇年からで、「アナクロニズム」の連載はそれ以前から続いていたので、まとめて読んだのは単行本になってからだろう。地球空洞説やら人間栽培やら蘆原将軍やらといった嘘とも実ともつかぬ奇妙な話をいかにも愉しげに語る文章を読んだのははじめてで、いっぺんにファンになった。この頃の「ユリイカ」は種村季弘澁澤龍彦由良君美の文章を読むために買っていたといっていい。種村・澁澤の本からは、知の隠された水脈について、由良の本からは知の「大いなる連鎖」について教わったように思う。
 生ま身の種村さんに会ったのは書評紙の編集者になってからで、依頼した書評原稿を受取りにご自宅までうかがった。ドアをあけたら勝手口で、テーブルでラーメンかなにかを食べている種村さんと話をしたような記憶があるのだが、突拍子もないシチュエーションなのであるいは私の妄想かもしれない。きっと奇行奇人綺譚やら文学的変装術やらといった奇妙な話を読みすぎたせいにちがいない。
 種村さんは二年前の今日、八月二十九日に亡くなられた。一年後に刊行された美術論集『断片からの世界』を書評する機会があったので、追悼の思いをこめて認めたのが以下の文である。聊か澁澤龍彦に引き寄せすぎたきらいがあるが、これは掲載誌の読者層を慮ったためで、種村・澁澤両氏の仕事については同一性以上に差異についてもっと論じられなければならないと思っている。文中の『迷宮としての世界』は近く新訳が出るそうだが(二宮隆洋氏の編集なのできっといい本になるだろう)、旧訳の意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。



  変幻、からくり、魔法、夢がひしめく
  種村さん家(ち)で午後五時にお茶を――


 種村さんの著書に、盟友・澁澤龍彦について書いた文章を集めた『澁澤さん家(ち)で午後五時にお茶を』という本があって、その表題となっているエッセイは次のように始まる。
 「ファブリツィオ・クレリチがアルベルト・サヴィニオの死を悼んで編んだ画文集『アルベルト・サヴィニオの家で午後五時にお茶を』には、鳥のような顔をした幻想動物がぞろぞろつながってサロンに登場してくるが、思えば、澁澤さん家(ち)の午後五時のお茶にも、怪物や天使の入れ替わり立ち替わり登場する幻想的な書物の珍客があとからあとから顔を出した」
 「澁澤さん家(ち)の午後五時のお茶」は、鎌倉の澁澤邸での集まりを指すと同時に、澁澤龍彦の繰り出す目も綾な夥しい偏倚な書物の謂でもあって、むろん誰もがよく知っているようにこれは「種村さん家(ち)の午後五時のお茶」であっても事情はまったく変わらない。
 本書は昨夏逝去した種村季弘の美術にまつわる文章を中心に纏めた遺稿集であるが、帯に書き抜かれたキイワード――変幻、からくり、仮面、贋物、魔法、迷路、箱、夢etc.――はそのまま澁澤龍彦的世界に双生児のようにぴったりと重なってしまう。澁澤龍彦は仏文学者、種村季弘は独文学者であるけれども、いずれも美術に造詣が深く、澁澤さんの『幻想の彼方へ』、あるいは種村さんの『迷宮の魔術師たち』といった美術論集によって私たちは美術に、なかんずく幻想的絵画の世界に目を開かれたのだった。
 そういった意味でも本書の巻頭に据えられた「マニエリスムの発見」という、種村さんが当時の澁澤夫人・矢川澄子さんと一緒に訳された『迷宮としての世界』の訳者あとがきは、ここからすべてが始まったというべき記念碑的エッセイである。実際、冒頭に名前の出てきたクレリチ(本書のカバーを飾っている)にしても、おそらく誰もが『迷宮としての世界』で初めてその存在を知って衝撃を受けたのであって、まことに三島由紀夫が予言したようにこの訳書は「地獄の釜びらき」の役目を果たしたのだと今更ながら感慨深い。
 ともあれ本書に収められた断片のごとき小品の数々は、断片にも関らず、いやむしろ断片であるがゆえの煌めきを放って世界を照射している。「ほとんど汲めどもつきせぬ無限の構造を生成」する断片のひしめくアーカイヴ――換言すればかのボルヘスが夢見た全宇宙をその中に包み込む小さな球体のような書物として、本書はいま私たちの眼前に佇んでいる。再びの「地獄の釜びらき」を待ちながら。

                            (「マリ・クレール」2005年12月号掲載)



断片からの世界―美術稿集成

断片からの世界―美術稿集成