中野重治の電話

 

「七年前の春だったと思う、中野重治さんから手紙をいただいた」という書き出しでその文章は始まる。達筆にしるされたその名前は、すぐには「歌のわかれ」の作者とむすびつかなかった。なにごとかと訝しみつつ手紙を開いてみると、あなたの書いた小説「心中弁天島」を読みたいのだが、何年何月号であるのか御教示されたし、と書かれている。あの中野重治がなにゆえ一介の物書きの娯楽読み物に興味をもたれたのか、その故よしはわからぬものの「読んでいただけるなら、幸せこれに過ぐるはない」と感激した。

 学生時代、同居していた友人に詩人中野重治の存在を教えられ、貸本屋で『歌のわかれ』を借りて読んだ。大学に籍は置いていたものの、戦後の混乱のなかで寄る辺ない日々を過ごし、娑婆から遁走して坊主にでもなろうかと腐心していた頃だった。その本の印象は「一言でいうと清冽であった」。昭和二十九年暮のことだった。

 この文章の書き手はいうまでもなく野坂昭如なのだが、野坂は「心中弁天島」が収録されている刊行されたばかりの作品集(『軍歌・猥歌』か)ともう一冊を中野宅へ届けに押っ取り刀で参上した。同行した友人が玄関をあけると、中野重治本人がお出ましになり、「野坂の使いの者」だと告げると随分と驚いた。「あのおどろきようは、どうも野坂参三とまちがえたんじゃないだろうか」と友人は笑ったが、日本共産党の内部事情について疎い野坂昭如には要領を得ない受け答えだった。野坂はこの小文を次のように結んでいる。

 考えてみると、ぼくは中野重治さんについて、何も知らない、しかし、『歌のわかれ』は、なにものにもかえがたい、ぼくの青春の書であり、あの時期に、この小説とめぐりあえたことは、本当に幸せだったと思う。

 この短いエッセイは中公文庫の新刊、中野重治『歌のわかれ・五勺の酒』の巻末に収録されたものだ。

 来年2022年は中野重治の生誕120年であるという。帯に「生誕120年/文庫オリジナル」を謳い、「歌のわかれ」の末尾の一節から引用した「兇暴なものに立ち向かうために」のキャッチコピー。カバーはモホリ=ナジの抽象画。

 この文庫に収録された中野の小説は表題の二作のほかに「春さきの風」「村の家」「広重」「萩のもんかきや」その他、全九作品。巻頭に詩を一篇(「歌」)、それに中野自身の随筆四篇、さらに「解説」がわりに石井桃子安岡章太郎北杜夫野坂昭如らの中野について書かれたエッセイを収録するといった構成である。中野自身の小説にかんしては、いずれも「定番」といっていい作品で選定に新味はない。初めて中野の小説にふれる読者を想定しているのかもしれない。同様の文庫版アンソロジーであるちくま日本文学全集の『中野重治』の巻とは六作が重なっている。

 野坂ら四人のエッセイは、いずれも中野重治全集の月報に掲載されたものの再録である(安岡章太郎の文だけが定本版全集で、それ以外は新版全集かと思う)。北杜夫の文は以前読んだような気がするが、他はすべて初読である。あるいは一度読んだものの覚えていないだけなのかもしれない。わたしは中野重治全集全二十八巻(別巻一)のうち十五、六冊をもっているし(定本版と新版がまぜこぜだが)、単行本はたぶん二十冊ぐらいはもっている。さらに、旧版中野重治全集(四六判だった)の端本やら各種日本文学全集の中野の巻やら文庫版やらなにやらを合わせると五十冊はくだるまい。したがって、この中公文庫版に収録されている小説はすべて数種類の刊本でもっているのだけれど、それにもかかわらず、野坂のエッセイを読むためにだけでも本書を買ってよかったと思う。

 さて、わたしはかつて中野重治と、あるかなきかの些細な交流があった。そのことを「中野重治の電話」と題して書いたことがある。山田稔さんの『天野さんの傘』の刊行を記念して(そして、《「第5回かまくらブックフェスタ」への参加を記念して》)真治彩さんが作成された小冊子「感想文集『天野さんの傘』」に掲載されたものだ。「ぽかん」の別冊というべき同冊子は2015年の刊行で、すでに販売期間も終わっていることと思いここに再掲する。

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  中野重治の電話

『天野さんの傘』は追悼文集といっていいほど知人友人たちのメモワールで埋め尽されている。生島遼一、伊吹武彦、長谷川四郎天野忠、松尾尊兊、黒田憲治、北川荘平、大橋吉之輔、そして富士正晴。「早々と舞台を去った」人々を「記憶の底を掘返して」ありありと現前させる、山田稔さんのエッセイの真骨頂である。

 松尾尊兊の訃報に接した山田さんは、書棚から松尾の『中野重治訪問記』を取り出して読み返す。松尾は京大人文研の助手仲間で、以来六十年に及ぶ交遊が続いていた。同著の記述をたどりながら、山田さんは在りし日の「松尾君」を呼びもどす。かつて「詩人の贈物」(『八十二歳のガールフレンド』)で書いたように、「思い出すとは、呼びもどすこと」なのだ。 

 わたしもまたこの本に導かれて書棚から『中野重治訪問記』を取り出してみた。松尾は師の北山茂夫が中野と親友であったことから、中野の知遇を得る。松尾にとって中野は愛読者として仰ぎ見る存在だったが、たびたびの訪問で中野も松尾に胸襟を開き、中野の死に際して夫人の原泉から「松尾さまは中野が心を開いて語りえたお一人だった」との書状が届くまでになっていた。「純朴」「晴朗とでもいうべき健康な明るさ」と山田さんがいう松尾の人柄が愛されたのだろう。

 松尾は中野邸を弔問したさいに、中野の書簡を集めるよう夫人に進言し、中野の死の翌年の一九八〇年、原泉は書簡蒐集に着手する。松尾は本書の序文で「厖大な来翰のうち文学者のものだけでも、中野さん自身の書翰とともに、『全集』の追録として、ぜひ公表してほしい」と記したが、それから三十余年を経た二〇一二年、七六五通を収録した六五〇頁におよぶ『中野重治書簡集』(平凡社)が刊行された。このなかには松尾尊兊に宛てた十三通も含まれている。すでに原泉も鬼籍に入り、息女の鰀目卯女さんが終始温かく見守ってくださった、と後記に書きとめられている。

中野重治訪問記』を読みおえ、浩瀚な『中野重治書簡集』を拾い読みしたわたしは、余勢を駆って石堂清倫『わが友中野重治』(平凡社)をひもといた。石堂は金沢の四高で中野の後輩にあたり、東大新人会でいっしょに活動した仲間である。同著は『中野重治訪問記』とは当然趣きがことなるが、中野をよく知る知己ならではの含蓄にみちている。中野は所属するコップ(日本プロレタリア文化連盟)への官憲の弾圧で投獄されたが、もし外部との交渉を断たれ、「一年でよいから一切文学に接する機会をうばわれ、単独で沈黙に立ち向うことがあったら、どうであったか」と石堂はいう。「甘える中野、甘やかした周囲は、小型か中型の愛情の世界に中野をとじこめはしなかったか」と。

 ちなみに、わたしは中野重治と一度だけ言葉を交わしたことがある。一九七六年、書評紙の編集者になった年のことである。その年の暮れに発行する翌年新年号のために、正月に相応しいネームヴァリューのある作家や学者に、「新年の抱負」といった短いエッセイを依頼することになった。文学の書評欄を担当していたわたしは、中野重治に原稿依頼の電話をかけた。記憶はさだかでないが、『中野重治全集』をしらべると第二十八巻に「白い杖のかわりはないか」という文章があり、末尾に(七六年十二月十五日)と日付が入っている。三百字ほどの短文である。おそらくこれにちがいない。わたしはこの原稿を受け取るために世田谷の中野邸へ赴いた。玄関先で封筒に入った原稿を原泉さんから受け取ったように思う。「今年はすこし落ちついて勉強したい」という書き出しだが、この年、中野重治は七十四歳、亡くなる三年前である。

 じつは中野重治とはもう一度言葉を交わしている。原稿が掲載された一月後だったか、中野さんから電話がかかってきた。稿料が届かないがどうなっているかという催促の電話だった。わたしは恐縮しながら、いかにも中野らしいと感心した。電話を切ったわたしが早急に支払うよう経理に督促したのはいうまでもない。