結城信一と会津八一


 結城信一は高等学院で会津八一に英語を教わった、と前回書きしるした。結城信一が早稲田高等学院に入学したのは昭和九年(1934)で、この頃、秋艸道人会津八一は早稲田大学文学部の教授であった。高等学院にも出講していたのだろう。『作家のいろいろ』に収められた「曾津八一 英語の先生のころ」で結城信一は、頭髪が逆立ち鋭い眼光をした古武士のような「曾津先生」の風貌を描き、大学で東洋美術史の講義をして得る報酬よりこの学院で英語を教えて得る報酬の方が額は多いのだ、と語った八一の言葉を伝えている。ハーディやコンラッドの短篇をテキストに英語を教わったが、曾津先生が『南京新唱』の歌集をもつ歌人であるとは知らなかった、と結城は書く。八一の第一歌集『南京新唱』が刊行されたのは大正十三年、もとより小部数の出版で、斎藤茂吉や吉野秀雄ら具眼の士には認められたが反響は乏しかったというから高校生が知らなかったのは無理もあるまい。


 結城信一会津八一をモデルにした小説『石榴抄(せきりうせう)』がある。単行本『石榴抄』*1は、「炎のほとり」「炎のなごり」「石榴抄―小説秋艸道人断章」の連作で、前二作は八朔先生すなわち八一も登場するけれども傍役に留まり、最後の一作が八一をめぐる私小説である。このたび再読してあらためて気づいたことがあるがそれは後述するとして、「石榴抄―小説秋艸道人断章」の冒頭近くにこういう一節がある。


 「八朔先生に、年代不詳の珍しい恋歌が一首あることは、すでに知られてゐる。
  それをいち早く紹介したのは、多分、先生と親交の厚かつた、洋画家の曾宮一念である。」


 「私」は、曾宮が新聞に書いた随筆「落合秋草堂」をたしか切抜いておいたはず、と収納棚の最上段から紙袋を三つほどひきおろし、「一週間ばかりかかつて、漸く三枚の切抜き」を探し当てる。「落合秋草堂」は曾宮が昭和五十二年二月の日曜ごとに新聞に四回連載した随筆で、一回分が欠落しているので「三枚の切抜き」が残っていたのである。その三回目に曾宮はこう書いている、と「自分のかなづかひ」に直して引用する。その引用の後半部を孫引きすると、


 「(略)旧文「二人の獨身藝術家」に、彼等の失恋は良いことであつた、と記した。中村の俊子は、五十年前に死に、八朔の文子は、一昨年九十歳の祝寿展を開き、私の娘が文子と握手してきた。」


 「私」はその引用につづけて「随筆に限つて言へば、八朔先生を、八朔と呼捨てで書くひとは、私の見聞の限りでは、曾宮一念ひとりのやうに思ふ」。ちなみに八朔は、秋艸堂、秋艸道人、渾齋、中岳など、八一の数多い雅号のひとつ。
 曾宮の文の「二人の獨身藝術家」とは、八一と中村彝(つね)で、「中村の俊子」は新宿中村屋創業の相馬愛蔵・黒光夫妻の長女俊子、「八朔の文子」は長谷川時雨の『美人伝』にも描かれた美貌の画家渡辺(亀高)文子、いずれも悲恋におわり、八一と彝は生涯独身を通した。曾宮はこの文につづけて八一の恋歌を紹介している、と「私」は引用する。


  うつせみはうつろふらしもまぼろし
  あひみるすがたとはをとめにて


「八朔先生の歌としては、佳作とも言難い」として「私」はつづけてこう記す。


 「文子は、八朔先生の肖像を描いたことがある、といふ。男の画家が恋人を描く例は多いが、女流に男が描かれたのは珍しい、九十歳の祝寿展にはしかし、その絵はなかつた、と曾宮画伯は結んでゐる。」


 八一の文子へよせる思いを詠った恋歌は、しかし一首にとどまらない。早稲田大学時代の友人、伊達俊光に宛てた手紙に数首詠まれており、新版会津八一全集の編集過程で発見されたこの書簡三十余通によって、八一の若き日の恋愛に新たな光が当てられたのであった*2。書簡に附された歌より二首。


  我妹子をしぬぶゆふべは入日さし紅葉は燃えぬわが窓のもと

  信濃なるあさまが岳に煙立ち燃ゆる心は吾妹子の為


これらの歌は明治三十九、四十年、道人二十五、六歳の作である。くだんの渡辺文子画く青年八一のいくぶん憂愁を帯びた肖像は『新潮日本文学アルバム61 会津八一』で見ることができる。
 小説「石榴抄」はまだ冒頭の数頁だが、ここで先にふれた「再読してあらためて気づいたこと」について書いておきたい。「石榴抄」の「私」、すなわち結城信一が興を覚えて切抜いた曾宮一念の随筆「落合秋草堂」に、同様に感銘を受けたひとりの歌人がいたことを私は再読して思い出した。


 以前、私は「来嶋靖生――生命の吐息の歌」(2006-02-12)でこう書いている(自分の文章を引用するのは面映いけれども)。
 「小中英之さんについて書き継いできた拙文が機縁で、天草季紅さんから小中さんが執筆したN紙の短歌時評のコピーを送っていただいた。(そこには)曾宮一念について書かれた文章もたしかにあった。曾宮が会津八一の思い出を書いた「落合秋草堂」についてふれた文章である。」
 「落合秋草堂」について書かれた小中さんの時評は昭和五十二年三月の掲載、曾宮一念が朝日新聞に当の随筆を書いた翌月のことである。小中さんは曾宮の文に「会津八一への批評眼が動いていて(ママ、「働いていて」の誤植か)、おや、と感じた」として、「その幾つか」を引用する。孫引きすると、


 「会津は一面知性と温情の人であり、一面世欲と自我に固執した。この片方を欠くと、会津ではなくて、飾り物の虚像になってしまう。」
 「身辺に賛辞が聞こえ始めると、巨匠の座に進むを焦り、後輩を退け、世俗と結ぶに傾いた。」
 「私は全く恨みを持たない。もし恨みの語を使うなら、“孤高”を忘れた会津の晩年への遺憾の意味だけである。」


 小中さんはこの引用につづけて「どちらかといえば、会津賛美の文はよく眼につくので、ことさら光ってみえる。といって会津批判などでは決してなくて、友を想う感情のあふれたもので、いかにも“孤高”の画家の文である」と感想を記す。「八朔(会津)と呼捨てで書く」友人ならではの厳しい批評であるということだろう。曾宮はまた「彼が歌を作るのは、自ら心を洗うためと、歌は古雅な語を連ねて、高き想と遠い世を仰ぐので、現実の自我はでにくい」とも記している。
 小中さんは「この曾宮一念の文を何人の歌人が読んだかは知らぬが、私などは心が洗われて、いまでも清清しい。それはあまりにも「飾り物の虚像」式に書かれているのが、世に多く散見しているからなのかしら、とも思う」とこの時評を結んでいる。
 「石榴抄」初読の際には、小中さんが「落合秋草堂」について書いていたことはたぶん思い出さなかったのだろう。それだけでなく、会津八一についても殆ど知るところがなかったので、この小説の面白さにまったく気づいていなかったにちがいない。むろんいまでも八一について知るところは寡いが、以前よりいくらかは味読できるようになったかもしれない。小説(に限らないが)は再読しなければ読んだことにはならない、とはそういうことである。
 曾宮一念の随筆集は二、三冊ほどしか持っていないが、この機会に再読してみたい。そして、昔買ったままで読まずに埃をかぶっている臼井吉見の大河小説『安曇野』もそろそろ読まねばならない。一冊の本を読むということは、あらたに十冊の読まねばならない本を知る、ということである。日暮れて道は愈々遼遠である。

*1:結城信一『石榴抄』新潮社、一九八一年

*2:宮川寅雄『会津八一』紀伊國屋新書、一九六九年