瞋る人――結城信一と会津八一(その3)


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 「會津八一ほどエピソードの多い人間は珍しいのではないか」と、工藤美代子は『野の人 會津八一』のあとがきに書いている。このひと月ほど、八一の本、八一に関連する本を十数冊、机上に置いてあれこれと拾い読みをしてきたけれども、多彩な挿話が何人もの著者によって伝えられ、一種の伝説と化してゆくさまが伺えて興味深いものだった。その伝説化に、意識してかどうかはともあれ、八一自身が一役買っているのも、この人物の特異さを示しているといえるだろう。その伝説を検証し、可能な限り事実に即こうとしたのが『野の人 會津八一』である。とりわけ八一が生涯独身を貫くことになった原因と思われる渡辺文子との「恋愛」の「真相」に迫った部分は本書の白眉であり、少なくともこの件に関して今後これ以上の作物は出まいと思われる。
 エピソードとして誰もが一様に語るのは「瞋る人」八一像である。門人のひとり宮川寅雄は「会津八一は、怒るべきとき以外に怒らないのである。会津八一の怒りには、愚物のうかがうことができない英知が貫いている。会津八一に叱られて、その理由のわからないのは、よほど思い上がった、独りよがりの人間だけである」*1と書いているけれども、これは弟子ならではの贔屓目で、「道人の怒りには深い理由があり、それは教育的配慮があった場合もあろうが、すべてそうだと見るのは、やはり一面的である。雷雲のような緊張がつづくこともあり、思いがけぬ不機嫌が爆発することもあった。多くの弟子や知人は、それに耐えた。大抵の場合は、道人の方から書や手紙を送ってよこし、関係は旧に復するのである」*2と植田重雄が書くように、怒られる方にとってみれば理不尽としかいいようのない場合もあったが、しかし激し易い性格であることは八一も自覚していたらしく、しばらくすると反省して謝罪の手紙を書いたり、「出入禁止、絶交、破門をしても、その回復を待ち望むのは、道人の方が強かった」という成行きになるのである。
 中学での教え子のひとり小笠原忠が小説『鳩の橋』*3でそうしたエピソードのひとつを伝えている。
 ある日、修身の時間に級長の少年が、先生はウィリアム・テルや奈良の仏像の話ばかりしかしないので困っている、と抗議をする。先生は、それはクラスの総意か個人的な意見かと問う。 「僕一人の意見」だという答えに、修身とは何かとさらに問いかける。少年が「天皇に忠義をつくし、親に孝行をする、人の歩かなければならない正しい道を修めるもの」だと答えると、先生は「大馬鹿もの」と一喝し、「教頭として退校を申しわたす。学用品をまとめてすぐに帰れ」という。この小説の語り手である級友の「私」にも、「先生は感情に走りすぎて」いて「狂人に見え」るほどの勢いだった。作者は先生の怒りの原因を推測してはいないが、おそらく少年の悟り済ましたような口吻が鼻持ちならなかったのだろう。だが、退校を口走るところが尋常でない。さすがに退校は取り消されるが、少年は浮かない顔をして学校に通っている。やがて夏休みが終り新学期になると、少年が晴やかな顔で登校してきた。奈良へ行っている先生から手紙をもらったのだという。
 手紙には「修身を教えられるのは神様か仏様たちだけである。欠点だらけの自分には修身などというものを教える資格はない」、だから悩みつつ、学生の心を少しでも豊かにし、未来のためになるようにと願ってあのような方針を採ったのだ、それを変えるつもりはないし、叱ったことを後悔もしていない、「しかし、奈良で朝な夕な仏様と一緒に暮していると、その仏様から自分の未熟を叱られているような気がして、恥かしく思っている」といった意味のことが書かれていた。少年は感激して「先生がとても好きになった」という。
 これを意図的にやれば人心掌握術ということになるのだが、性来不器用な八一には人心掌握など思いの外で、彼は天性のカリスマであったというべきだろう。ベストセラー『銀座細見』の上木を忌避され破門された学究安藤更生もまた破門を解かれ生涯八一を師と慕ったのである。


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 さて、結城信一の『石榴抄』に戻れば、


 「次の年の春曉、秋草堂は、空襲で焼亡した。和漢の一万冊の蔵書と、骨董であふれ、収まりきれぬものは廊下にまでなだれてゐた秋草堂は、この四月十四日、殆ど一物もとどめなかつた。」


 昭和二十年三月十日の東京大空襲につづく、四月十三日のB29大編隊による焼夷弾絨緞爆撃である。結城信一は「三月九日夜半から暁方にかけての来襲機数が、百三十であつたから、この夜から翌早暁にかけての百七十は、更に大規模といふことになる」と書いているが、三月十日の東京大空襲は飛来機三百二十五機(うち爆弾投下機二百七十九機)ともいわれる最大の空襲だった。
 ちなみに、岩本素白はこれより先、三月十五日に空襲に合い、万巻の書とともに家を焼失している*4。八一ときい子は新潟県北蒲原郡、父方の縁戚、丹呉家(『石榴抄』では醍醐家)に疎開する。素白先生が疎開先の長野から新潟へ宛てた手紙への八一の返信が残っている*5


 「拝復 貴兄も同じ運命となりなされし候よし、いたましく存居候。己が身にひきくらべて感慨深く候。ことに何と申しても、拙者は田舎者なるも、貴兄は田舎生活には不向の人なれば、まことにいたましく候。しかし御同様、文藝は外から塗りつけたるものにあらず、性分から湧き出でたるものなれば、猛火といへども我等の頭の中、胸底まで焚きつくす能はず。かへつてこれから後に我等はほんとの文学、ほんとの人生にも直面すべきなりと存じ候。」


 八一がこの手紙を認めた七月十八日は、きい子の死(七月十日)後、まもなくのことであった。「これからは真に一人となりて、世にさまよひ可申候」とある。
 疎開先の醍醐家での生活は難儀なもので、きい子の結核の病状も悪化する一途である。やがて当主から村内の観音堂へ引き移るようにいわれ、「八朔先生はきい子をリヤカーに乗せ、観音堂まで曳いて」ゆく。観音堂に移って一週間余の十日未明、「きい子は呻きながら、はだけた胸をかきむしってゐた」。八朔先生は醍醐家へ向う暁方の道を下駄履きでひた走る。不意に茂吉の歌が脳裡に甦る。「ひた走るわが道暗ししんしんと堪へかねたるわが道くらし」。師伊藤左千夫の死を電報で知らされた茂吉が、島木赤彦の家へ向うときの「悲報来」一連冒頭の一首である。醍醐家へ着き急を知らせると、醍醐の息子が医者のいる町へ向って走り出す。若者の背を見送りながら、


 「醍醐家から何だかんだと言はれてはきたが、この家の人たちはよく尽くしてくれたと、たちまちに暗闇に消えて行つた若者の後姿を、八朔先生はうるむ眼で見送つた。」


 このあたりの描写は、小説的脚色に加え、おそらく八一の著作や日記をもとにしているせいで、事実とは聊か異なる。村端の観音堂といえば寂れたみすぼらしい建物に思えるが、そして八一自身そう書いているけれども、四部屋の座敷に仏間、台所、風呂場がついた立派な建物で、村の中央にあり毎年その前庭で盆踊りが立ったという。きい子をリヤカーに乗せて運んだのも丹呉(小説では醍醐)家の元奉公人で観音堂の隣に住む三浦作吉だったという*6。「八一は疎開先で自分を孤独で無力な存在と位置づけた」(工藤、前掲書)けれども、周囲の人たちに手厚くもてなされていたというのが実情である。宮川寅雄宛の手紙にも「きい子は十日遂に病死致し候。その前久しく無人のため炊事看護まで拙者致し野送りも骨拾ひも一人にて致し候」と書き送っているけれども、火葬へは丹呉の当主康平や市島昂(春城の息子)も同行し、三浦作吉ともう一人が車を引いたという(同前)。
 おそらく八一に虚言の意思はなかったにちがいない。工藤美代子のいう「自己憐憫」がある種の劇化(空想)を経て、記憶が歪曲されたのだろう。記憶錯誤の症例といっていい。「道人の大喝激怒は性格そのものと同じように多岐にわたり複雑な様相をもっていた」と植田重雄が控えめに述べているように、八一の「自己憐憫」は、若い頃から八一の性格を形成するひとつの要素となってまさに「複雑な様相」を呈している。堀口大學のいう「強気と弱気を同時に心中に蔵した人」との評言も、曾宮一念の「一面知性と温情の人であり、一面世欲と自我に固執した」人との評言も、その複雑な様相をとらえた言葉といえよう。


 「きい子を荼毘に附してから、八朔先生は追想の歌を作りはじめた。それから四十余日後に完成を見たのが「山鳩」である。


  いとのきてけさをくるしとかすかなる
  そのひとことのせむすべぞなき

  やまばとのとよもすやどのしづもりに
  なれはもゆくかねむるごとくに

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  かなしみていづればのきのしげりはに
  たまたまあかきせきりうのはな     」


 昭和二十年十二月十日、八一は「山鳩」二十一首、「観音堂」十六首を収めた私家版歌集『山鳩』を上木する。「半紙半截の和紙綴で、二十四頁の薄い本」である。
 『石榴抄』は、「この五年ばかり病みつづけ」旅に出ることもなかったが、今のうちに「短い旅はどうか」、「新潟に赴いて、墓参をし、落葉も掃いてきたい。先生の墓と、きい子さんの墓は、ともに市内の瑞光寺にある。たまたま今年一九八一年は、八朔先生の生誕百年にあたる」と閉じられる。
 「山鳩」は翌二十一年十月、雑誌「象徴」創刊号に掲載された。八一に掲載を慫慂したのは同誌の編輯に携わった結城信一である*7。『石榴抄』上木の三年後、一九八四年十月二十六日、結城信一は長逝する。享年六十八。
 八朔先生の墓参は果せただろうか。

*1:宮川寅雄『秋艸道人随聞』中公文庫、一九八二年

*2:植田重雄『秋艸道人會津八一の生涯』恒文社、一九八八年

*3:小笠原忠『鳩の橋――教育者會津八一と少年』恒文社、一九九七年。芥川賞の候補になり、テレビドラマ化もされた。昭和四十一年、八一を演じたのは佐分利信

*4:植田重雄編著『秋艸道人會津八一書簡集』恒文社、一九九一年の岩本素白宛書簡の註による。素白の結城信一宛来翰の「五月廿七日麻布の書屋を喪ひ」とは齟齬する。

*5:同上書簡集

*6:植田、前掲書

*7:宮川寅雄『會津八一の文学』恒文社、一九九八年