才子多病――結城信一と廣津賢樹


 前々回ちらと書いた『結城信一 評論・随筆集成』と『作家のいろいろ』との異同について調べてみたのでご報告しよう。
 『評論・随筆集成』は『作家のいろいろ』の増補版であり、「室生さんの死」と「室生犀星への旅」、そして<あとがき>を除く『作家のいろいろ』のすべての作品が収録されている。『評論・随筆集成』に、犀星にかんする文三篇(「室生犀星序説」「室生犀星の一時期」「初版本を蒐む」)があらたに追加されたため、先の二篇は削除されたのだろう。「室生犀星への旅」は、犀星の書誌を作成するための初版本蒐集について記したもので、「初版本を蒐む」と内容的にも重なる。
 犀星にかんする三篇以外で、『評論・随筆集成』にあらたに収録された作品は以下のとおり。
 一部の作家論では、岡鹿之助 美のたまもの/会津八一 『山鳩』のころ/横光利一 『旅愁』小感/浅見淵 ちとせにて、浅見さんの歌集/吉田弦二郎 吉田弦二郎と一つの世界/石井潤 哀悼石井潤/小沼丹 唯一度の電話
 二部の書評では、『会津八一の書簡 第一巻』/中里恒子『関の戸』
 三部の随筆では、夏の巣立ち/女の先生/ルソーの墓碑銘/十月/蟹舟/立春まで/南方特別留学生/川端さんの手紙/小説の中の好きな女/晩夏の信濃追分/ある山村/小さな火
 それに、結城信孝の<編者あとがき>と荒川洋治の<解説>、以上である。
 『作家のいろいろ』をすでに所持していても、この増補版は逸することができない。


 さて、いずれの本にも収録されている文に「岩本素白」がある。坪内祐三週刊文春の連載コラム<文庫本を狙え!>で『東海道品川宿』を取り上げたさいに引用したものである。「私は静かなのは好きだが、寂しいのはいやだ。賑かなのはいいが、うるさいのは困る」。素白は教室でそう言ったという。結城信一が早稲田の第二高等学院の生徒であったときの話である。結城はつづけて「同じクラスに廣津賢樹君がいた」と書く。父親の廣津和郎も麻布中学時代に素白岩本堅一に教わったので、親子ともどもの師ということになる。結城信一は、


 「しかし惜しいことに、昭和十四(一九三九)年秋に早逝した。その死について切々たる長文を、同年の婦人公論十二月号に和郎氏が書かれたことも、私の胸の奥に深く刻みこまれてゐる。」


と書いている。
 『作家のいろいろ』でこの文章を読み、廣津和郎の書いた追悼文を読んでみたいと思った。図書館で廣津和郎全集を調べたが、生憎それは載っていなかった。いずれ近代文学館か国会図書館へでも行って婦人公論のバックナンバーを探すことにしよう、そう思っていたところ思いがけず見つけることができた。
 古書店で『廣津和郎著作選集』(翰林書房)を目にし、目次を眺めていると「愛と死と」(賢樹)と題された文があった。「切々たる長文」と結城信一は書いているけれどわずか二頁に満たないもので、その場で立ち読みすると、間違いない、探していた追悼文だった。一読打たれるものがあり、需めることにした。この選集は全集未収録の小説や評論などが少なからず収録された重宝な作品集である。


 「若くして死ぬ人間の老成のやうなところを賢樹は前から持つてゐた」と廣津和郎は「愛と死と」の冒頭に書いている。
 学校の成績を尋ねると「つまらない事を訊くなよ」と応えて成績表も見せたことがなく、そのくせいつも三番以内にいたという。それが小学生のときで、全国の小学校から選ばれた優秀な絵画を蒐めて上野で展覧会が開かれたときに、自分の描いた油絵が出品されたのにかれは家族の誰にもそれを告げなかった。中学生になると「中学といふところは妙なところで、体操、図画、習字まで好い点を取らうと一所懸命になつてゐる奴がいるんだよ。凡そ僕はさういふのと競争する気はないね」、「俺は平凡に静かに暮したいね」といっていたという。長じて早稲田大学の歴史科に入るが、病い(腎臓結核)をえて「俺も結局親父と同じ事をやるやうになるのかな」と妹(桃子)に漏らし、流行作家たちを痛烈にやっつけては、にやりと笑って「併し批評つて奴は誰でも出来るのさ。かういふことを云ふ奴がつまり一番仕事が出来ないんだよ」と嘯いた。自分の意見は断じて曲げないが、人と論争することは好まないたちだった、と父は書く。
 亡くなったあとでなにか書き残してはいまいかと探したが見つからなかった。「そんなものは残さない方が好いんだよ。消えて行くなら黙つて消えて行けば好いんだよ」とにやりとしているかもしれない、と父は思う。近所の子供たちを可愛がっていたらしく、子供をつれた親たちが何人も焼香に来て泣いた。近所のお婆さんも「お若いのにこんなに年寄の話をにこにこして聞いて下さつた方はなかつた」と霊前に長い間座っていたという。
 そんな息子の姿を亡くなったのちに父は初めて知ったのだろう。死ぬならいま死んでくれてよかった、と廣津和郎はこの哀切な文を閉じる。十年後なら年老いた自分は堪えられなかったろう、と。父和郎、四十八歳、賢樹、享年二十三。
 父譲りの才気紛れもない青年が、生きながらえて父と同じ道をもし歩んだとしたらどんな作品を残しただろうか、と思わないでもない。女性にたいして用いることばかもしれないが佳人薄命の感が深い。


結城信一 評論・随筆集成

結城信一 評論・随筆集成