ノンちゃんかく語りき


 本を読んでいて思わず「おお!」と嘆息することがある。いまなら差し詰め「マジすか?」とでもいうところだ。光文社古典新訳文庫カフカを読んだときの「マジすか?」については以前書いたことがある(id:qfwfq:20070909)。最近驚いたのは野上照代さんの書かれた「『赤ひげ』後のクロサワとミフネ」という文章の次のようなくだりに、である。
 野上さんは、長年、黒澤明の映画のスクリプターを務めて業界はもとより一般の方にもよく知られ、最近では山田洋次監督の『母べえ』の原作者としても脚光を浴びている。つまり、吉永小百合の演じた母べえの娘にあたる方である。その野上さんに、『赤ひげ』完成パーティのときにというからもう四十年以上前の話だが、黒澤監督がこう囁いたという。「小國に言われたよ。あのミフネはちがうぜって」
 小國とは『赤ひげ』の脚本家のひとり小國英雄(映画のクレジットは井手雅人菊島隆三、それに小國、黒澤の共同脚本になっている)。「ちがうぜ」とは「ミフネは“赤ひげ”という人物を正しく理解していない、という意味」で、黒澤はこの映画を脚色するにあたって原作者の山本周五郎に「赤ひげは心に深い傷を負った人間だということを忘れないように」と言われていたという。


 「その山本も完成試写を見て「よくやった。原作よりよく出来た」と褒めてくれたというから、クロサワも喜んでいたのに、この小國さんのひと言は不思議なほどの打撃を与え、クロサワの心に落ちた一滴の冷水は次第に拡がり、クロサワを浸蝕していった。」


 このことがきっかけで、それまで十六本のクロサワ映画に出演していたミフネはその後三十年、つまり亡くなるまでクロサワ映画に出ることはなかったのだ、という。
 おお、そうだったのか。『赤ひげ』は、スクリーンとTVで放映されたのを合わせても三、四度ぐらいしか見ていないと思うが、三船の演技に「ちがうぜ」と思ったことはない。『赤ひげ』以降、黒澤・三船コンビの映画が作られなくなったのを不思議に思ったことはあるけれども、野上さんが書いているように「もう三船君とやれることは全部やってしまった」という黒澤の言葉に、そんなものかなと思っていた。だから、おおそうだったのか、なのだけれども、本当におどろいたのは野上さんの明かすそういう事情にではなく、やはり「ちがうぜ」のひと言に、なのである。
 もうずいぶんと長いあいだ見ていないので記憶は薄れているけれど、小さな養生所で貧しい庶民の診療に挺身する赤ひげに、なにか過去の出来事にたいする屈折した思いがあったことを窺わせる科白はあったような気がしないでもない。おそらく山本周五郎のアドバイスをいれてそうした脚本づくりがなされていたのだろうと思う。だから山本周五郎も映画を見て称賛を惜しまなかったのだろう。しかし――
 「ちがうぜ」である。野上さんは書いている。


 「撮影中でもクロサワはミフネの演技に注文をつけたことは無く、およそ、批判的な眼でミフネを見ることは無かったのだ。
 クロサワがミフネの演技に僅かにしても不満を抱いたのは、おそらく『赤ひげ』が初めてだろう。それでも、クロサワはミフネとそのことについて話し合った訳でもなく、遠慮がちに後ずさりしてミフネから離れていったように見えた。」


と。それじゃミフネが可哀想すぎませんか。だって、三船はその後、『トラ・トラ・トラ!』で黒澤がFOXに解任されたときも黒澤を励ましたり、『デルス・ウザーラ』でソ連から出演を打診されたときも必死でスケジュールを調整したりしてるじゃありませんか。「ミフネがどれほどクロサワとの仕事の再現を切望していたか、察するに余りある」と野上さんも書いていられる。だけど黒澤は三船と一緒に映画を撮ることはなかった。『影武者』でも『乱』でも『夢』でも『八月の狂詩曲』でも。『まあだだよ』と言われてるうちに死んでしまった。
 「ちがうぜ」のひと言は、それほど黒澤を呪縛したのだろうか。
 小國英雄の「ちがうぜ」のひと言は、「ミフネは“赤ひげ”という人物を正しく理解していない」のではなく、野上さん自身がこの本の第一部のインタビューで語っているように、黒澤の演出にたいする指摘として黒澤の胸に鋭く突き刺さったのだろう。三船が「“赤ひげ”という人物を正しく理解していない」とするなら、その三船の演技にOKを出した黒澤が取りも直さず「“赤ひげ”という人物を正しく理解していない」ことになるからだ。小國のひと言は背中から黒澤を袈裟がけに斬り裂いた。おそらく、試写会での好評に満足しながらも「これで本当にいいのか」と自らに問いかける疑念が黒澤の心中深く伏在していたのだろう。そうでなければ「ちがうぜ」のひと言は一笑に附したはずである。
 だけどそれが原因で「後ずさりしてミフネから離れていった」のだとしたらミフネがあまりに気の毒すぎますよ、クロサワさん。人間の心のうごきというのは、えてして非合理で不条理なものであるにしても。
 『赤ひげ』、もう一度見直さなくちゃ。


 野上さんのこの「『赤ひげ』後のクロサワとミフネ」という文章は、その後の二人のゆくたてを描いて感動的である。あるいは映画以上に。野上さんの著書『天気待ち』の英語版Waiting on the Weatherに附された書き下ろしで、『蜥蜴の尻っぽ』に収録された。クロサワとミフネ、と仮名書きになっているのはそのせいだろう。

 『蜥蜴の尻っぽ』は一部が野上さんの来し方を振り返ったインタビュー(八十歳になられた由)、二部がエッセイという構成で、インタビューにこういうくだりがある。


 「黒澤さんという人はとにかく、いったん気に入るとベタ惚れ状態になるんだけど、何かでイヤになると、憑いた狐が落ちたみたいに大嫌いになっちゃう。今までそういう相手が何人かいたのも知っていますがね。」


 三船敏郎もその一人だったのかもしれない。三船が晩年病に伏していたときに野上さんがそのことを黒澤に伝えると、黒澤も車椅子に座っていたが「三船は本当によくやったよ。三船に会ったら、そう言って褒めてやりたかったねえ」と遠くを見るような眼で言ったそうである。「三船さんは、そのひとことを、どんなに聞きたかったことだろう」と野上さんは書いている。
 さて、もう一か所インタビューから引用すると、


 「(略)それから『夢』のときだったか、みんなで試写にきてくれたというか、私が声を掛けてお呼びしたのだけど、井伏さんが安岡さんの隣に坐って見ていた。そうしたら安岡さんが「先生はお隣で見てらしたけど、よく寝ておられましたね。でも終わったときにちょうど目を覚まされるのが、なかなかいいところで」って……(笑)。」


 そうです。それは『夢』のときです。ただし、井伏鱒二安岡章太郎の隣にではなく、前の席にお坐りでした。なぜなら安岡さんの隣にはわたしが坐っていたからです、と野上さんに申し上げたい。『蜥蜴の尻っぽ』という本には「とっておき映画の話」という副題がついているけれども、その『夢』の試写会でのちょっとしたエピソードはわたしの「とっておき」の話で、いろんな人になんども話して持ちネタになっている。だけでなく、野上さんの前著『天気待ち』の書評を書いたさいにも御披露したものである。以前書いた書評を以下に掲げておこう。



        黒澤映画をとおして見た日本映画私史


 ノンちゃん――スタッフたちに親しみをこめてそう呼ばれている。『羅生門』以来、およそ50年間の長きにわたって黒澤映画のスクリプター(記録係)を務めた野上照代さんの、これは黒澤映画をとおして見た日本映画私史である。

 1本の映画が人の人生の方向を左右することがある。女学生だった野上さんが父君(独文学者・野上巌氏)に教えられて見に行った映画が、やがて彼女を映画の世界に導くこととなる。映画を気に入った野上さんがファンレターを送ると、思いがけず著書とともに返事が届き、やがて監督との文通が始まった。その映画とは伊丹万作の傑作『赤西蠣太』である。
 出版社で編集者として働いていた野上さんは、伊丹監督との縁で忘れ形見・岳彦(十三)少年の世話をしながら大映京都撮影所でスクリプターとして働くこととなる。「ノンちゃん」の愛称をつけてくれたのは『羅生門』の助監督、のちの『沓掛時次郎 遊侠一匹』の名監督加藤泰である。太秦での駆出し時代に接した衣笠貞之助長谷川一夫、『羅生門』での黒澤明監督との出合い、東宝に移ってついた市川崑、『隠し砦の三悪人』『七人の侍』……それらにまつわるエピソードや失敗談は映画ファンにとっては興味津々の読み物だろう。

 「なつかしい昔の撮影裏話」を綴っていた筆がわずかにそのトーンを変えるのは、極寒の地シベリアでの『デルス・ウザーラ』の撮影風景を描いた章以降である。筆致がほんの少しのびやかになり、それとは裏腹に、これだけは書いておかなければといった切迫感が漂いだす。それもそのはず、この部分は黒澤監督没後に書かれた書下しで、「御存命中はこんなふうには書けなかっただろう」と述懐されている。「その頃の黒澤さんは断崖絶壁を背に、不安と孤独感に悩まされていたに違いない」――ユーモアがありさっぱりした性格だという黒澤明が自殺を図った翌年あたりのことだ。
 完成した『デルス・ウザーラ』に使われなかった撮影済フィルムがロシアの撮影所にあるらしい、その探索に野上さんがロシアへ出かける――昨年だったか、そういった内容のTVドキュメンタリーを見た。結局、フィルムは見つからなかったが、その番組には図らずも、黒澤組の作曲家・佐藤勝氏のあっけない死という出来事も収録されていた――。
 佐藤氏のみならず、後半に至ると本書はにわかに点鬼簿めいてくる。本多猪四郎三船敏郎藤原釜足武満徹川喜多和子川喜多かしこ伊丹十三、そして黒澤明……。野上さんが編集者だった頃からのお附き合いで、映画の完成試写には必ず招待したという井伏鱒二とも「『夢』の試写に来ていただいたのが最後になった」とある。
  いっとき映画ジャーナリズムの末端で働いていた私には、著者をはじめ直接お会いした方々が何人も登場して懐旧の情にかられるが、ひとつ私の目撃したとっておきのエピソードをご紹介しよう。


 ――その『夢』の試写室へ、野上さんに支えられた井伏さんが蹌踉と入って来、私の前の席に腰を下ろされた。私の隣には安岡章太郎ご夫妻。安岡さんが井伏さんにご挨拶をされ、ついで思いだしたように話しかけられた。「このあいだ都はるみの歌を聞きに行きましてね」。引退した都はるみが再デビューして話題になっていた頃だ。「さすが都はるみですねえ、いやあ、感動しました」と安岡さん、感に堪えない風情。そのとき井伏大人少しも騒がず、ボソっと一言。「その人、歌がお上手なんですか」。さすがの安岡さんも二の句が継げなかった――。
 私は心の中で井伏さんに喝采した。それが井伏さん一流の諧謔だったのか否か、もはや確かめるすべもない。

                                          (bk1 2001.02.03)


蜥蜴の尻っぽ―とっておき映画の話

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天気待ち―監督・黒澤明とともに

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