おとぎ話の中で観客はモンスターとなる(その1)


 古雑誌を整理していたら、昔、原稿を書いた雑誌が出てきた。「エスクァイア日本版」2000年3月号、<恐怖の館へ、ご招待>と題したホラー映画特集。
 しばらく休刊していた映画雑誌が復刊されることになり、私は勤めていた出版社を辞め丸二年住んだ京都を離れて上京したのだが、季刊で始めた新雑誌は一年、四冊を出しただけで敢えなくつぶれてしまった。失職していたところへ旧知の編集者から誘いがかかり、書かせてもらったのが以下に掲げる恐怖映画論である。格別ホラー映画が好きでも興味があったわけでもないので、レンタルショップでビデオを十本ほど借りてきて適当にでっち上げた代物で、別に目新しいことを論じているわけではない。今後この手の原稿を書くことはないだろうと思い、記念にここへ掲載してみた。それにしても、持つべきものは友人である。原稿料は私の生活を、むろん束の間にすぎないが、支えてくれた。


  おとぎ話の中で観客はモンスターとなる


 『スクリーム』はホラー映画としてはとくに出来のいい映画とはいえないが、この映画の面白いところは、これがホラー映画についてのホラー映画ともいうべきメタ・フィクションとなっている点だろう。パロディとしてのホラー映画といってもいいが、原典を批評的に本歌取りしたものをパロディとするなら、 『スクリーム』はホラー映画総体を、あるいはホラー映画というジャンルそのものをパロディにしている点が異色といえばいえるだろう。
 殺人鬼がホラー映画(映画の中では主にスケアリームービーという言葉が使われている)マニアであることや、自作である『エルム街の悪夢』をはじめ『ハロウィン』『13日の金曜日』『死霊のはらわた』といったホラー映画の題名が飛び交ったり、パーティでホラー映画のビデオを上映している最中にそのビデオをなぞるかのように殺戮が起こったりするだけでなく、殺人鬼とその標的である女の子との間で次のような会話が交わされもするのだ。
 殺人鬼は女の子に電話でホラー映画に関するトリビア・クイズを出す。答えられなかったら命はない、というわけだ。
 「ホラー映画は好きかい?」
 「好きじゃないわ」
 「怖すぎるから?」
 「いいえ、どれも同じだから。殺人鬼にデカパイの女の子。外へ逃げればいいのに2階へ逃げるとこ」
 だからといって、ウェス・クレイヴンは今までにない斬新なホラー映画を作ろうという野心など、毛ほども持ち合わせてはいない。殺人鬼に追いかけられた女の子はやっぱり2階へ逃げることになるし、せっかく殺人鬼にダメージを与えても逃げることに気がせいて、結局はまた窮地に追い込まれることになってしまうのだ(やれやれ)。プロレスの技の見せ合いのようなこうしたルーティン通りの追っかけっこを、ウェス・クレイヴンはいとも心地よさそうに演出している。
 だかこれは、はたしてホラー映画というべきだろうか。


 「ウェス・クレイヴンの映画を一本でも見たことがあるならば、彼のほかの映画は避けるにこしたことはない」(『死の舞踏』福武文庫)とスティーヴン・キングが自著で親切に忠告しているにも関わらず『スクリーム2』を見た人は、前作でのこうしたメタ・フィルム的傾向が続編ではさらに倍加されていることに気づくだろう。
 『スクリーム』の中で起こった連続殺人事件を映画化した『スタブ(刺殺)』という映画の試写会場で、前作と同じ死神のコスチュームをまとった殺人鬼にカップルが惨殺されるという映画内映画のシーンで『スクリーム2』の幕は上がる。同じキャンパスを舞台に、登場人物も前作と同じというこのパート2では、ホラー映画という枠(フレーム)だけではなく、映画史そのものも参照枠とされている。
 映画マニアの学生たちによる「パート2」映画に関する議論(『エイリアン』『ゴッドファーザー』『ターミネーター』エトセトラ)が出てくるのみならず、登場人物が殺人鬼の正体を推理する際にも、前作の事件が「映画」であったことが観客との間で了解事項として共有されているのだ。「皆さんといっしょに犯人を当てましょう」とでもいうように。パート2を撮るに当たって、ウェス・クレイヴンは「パート2とは何か?」をテーマにしてみせたというわけだ(登場人物の一人に臆面もなく「『エルム街2』って最悪!」と言わせているように、おそらく彼はジャック・ショルダーによる『エルム街の悪夢2』の出来の悪さに頭にきていたに違いない。ホラー映画では同じ監督がパート2を手がけるのは珍しいが、さすがに『スクリーム2』はムービー・フリークぶりをさらに徹底させている点では前作をしのいでいる)。
 ジャンルそのものと戯れてみせるこうした手法は、もはやポストモダニズムの常套といっていいが、一方ではSFなどと同じくホラー映画が極めてマニアックなオタク向きジャンルであることの証左でもある。ここで再び、ホラー映画オタクであるスティーヴン・キングの言葉を引いてみよう。

 「ホラー映画の中の死は最も単純な形で神話化された死だ。そう、ホラー映画の死とは、モンスターに捕まってしまうことをいう」(前掲書)

 キングの言葉をさらに敷衍するなら、ホラー映画とは一言でいうとモンスターとの攻防を描いた映画だ、といえるかもしれない。人造人間や吸血鬼、狼男といったフリークスから、鮫、鰐、カラス、ピラニアといった生き物、宇宙からやってきたクリーチャー、甦る死体、果ては車や家やコンピューターにいたるまで、世にモンスターのタネは尽きない。


 ここでは『スクリーム』に倣ってホラー映画というジャンルのルーティンを、物語と映像の両面から概観してみよう。
 まず、ストーリーに関して、キングは先に挙げた「現代アメリカのホラー映画」というエッセイで、ホラー映画を、政治的/社会的ホラー映画と神話的/童話的ホラー映画とに大別している。
 前者は、当時の政治・社会的状況――米ソの冷戦による核戦争の脅威に代表されるような――を反映したもので、モンスターは「政治上の仮想敵」を投影したものだ。『ボディ・スナッチャー』や『遊星からの物体X』がそれに当たる。
 後者は、最近時ならぬブームとなった『本当は怖いグリム童話』のように「おとぎ話の恐怖」をベースにしたもので、「ヘンゼルとグレーテル」をなぞった『13日の金曜日』などが代表的なものだ。
 ヒッチコックの(というより、その原作であるロバート・ブロックの)『サイコ』のモデルとなったエド・ゲイン事件の研究書(『オリジナル・サイコ』ハヤカワ文庫)を書いたハロルド・シェクターに、ポップ・カルチャーとフォークロワ(民話/口承説話)との関わりを論じた魅力的な書『体内の蛇』(リブロポート)があるが、彼はその中でキングの分類を紹介しつつブライアン・デ・パルマの『キャリー』のエンディングについて次のように考察している。
 死んだはずのキャリーの腕が墓の中から出てくるエンディングが強烈なショックを与えるのは、「人のスキを突くという効果をまったく排除しても、呪われ苦しめられた少女が埋葬されても安らかに眠ることを拒否するというイメージそのものに、本質的に人を不安にする要素がある」ためだ、と。そしてこのイメージは、グリム童話の「わがままな子ども」という話と同一のものであり、『キャリー』はその「洗練された感覚」にもかかわらず、「伝統的な口承話に非常に近い」のだ、と。この墓の中から伸びる手というイメージはまた、『死霊のはらわた』にも共有されている――。
 つまりおとぎ話では、マリア・タタールがいうように「登場人物たちはほとんどすべてといっていいほど、どんな残酷な行為でもしかねない」ものなのだ(『グリム童話――その隠されたメッセージ』新曜社)。タタールの紹介する「盗賊のお婿さん」という次のようなおとぎ話は、ホラー映画の一場面だといってもなんら不思議ではない。
 「若い娘をさらって隠れ家に帰ってきた盗賊とその一味が、娘の服をはぎとり、テーブルの上にねかせ、その体をこまかく切り刻み、その上に塩をふりかける。そしてその一部始終を盗賊の婚約者である別の娘が恐ろしさにおののきながら盗み見ている。そのうえもっと恐ろしいことに、殺された若い娘の指に金の指輪がはまっているのに気づいた一味の一人が、斧でその指を切り落とした拍子にそれが高くはねあがり、隠れていた娘にひざの上に落ちてくる」
 一種の「狂犬病」に感染した医者が手術中に看護婦の指を鋏で切り落とすという、デイヴィッド・クローネンバーグの『ラビッド』の1シーンを思い出さずにはいられない。
 ついでにいえば『エルム街の悪夢』で、子どもたちがマザー・グースのようにフレディの歌を歌うのも、おとぎ話と同じく童謡の残酷さがイメージとして広く共有されているからだといっていいだろう。
 こうした童話のイメージの導入は、むろんホラー映画に限ったことではない。その最も新しい例を、われわれは『マトリックス』でキアヌ・リーブスキャリー=アン・モスの口づけによって「眠れる森の美女」のように甦る場面に見ることができる。


 長くなるので、以下は次回に――。