二月は残酷きわまる月だ




 先週、近親者の葬儀で北陸へ行った。ところどころに残雪があった。東京へ戻ると、北陸に劣らぬ寒波に身も凍えた。
 帰宅してパソコンをひらくと、近親の青年の急病を伝えるメールが届いていた。重篤の病で、それから二週間を経た今でも意識が戻らない。いつまでも醒めることのない気がかりな夢のなかにいるようだ。
 今月四日に川崎彰彦が亡くなった、とインターネットで知った。二十代から愛読していた作家だった。小説集や随筆集もあるけれど、詩集をひもといて故人を偲ぼうと家じゅう捜したが、どこに仕舞いこんだのか見あたらない。川崎彰彦に『私の函館地図』という小さなエッセイ集があり、昔、書評紙に勤めていたころ、短い紹介記事を書いたことがある。調べると1976年の刊行だった。往事茫茫として霞の彼方なり。
 最後の著書『ぼくの早稲田時代』は数年前に女性誌に紹介記事を書いた。読者はさぞ途惑ったことだろう。いずれ詩集を捜しだしてなにか書いてみようと思っていた矢先、今朝の新聞で、やまだ紫の死を知った。読書欄のコラムに「昨年に急逝した漫画家のやまだ紫著『性悪猫』…」とある。急いでネットで検索すると、昨年五月に亡くなっていた。なんということだろう。
 わたしが初めてやまだ紫の名を知ったのは、まんが雑誌「COM」に発表された「九つの春」か「どじです」あたりだったか。 いずれも1970年の作品で、同年の「しつもんがあります」でその存在を強く印象づけられた。その次の「はためく」の最後のコマのネーム「誰に詫びよう/肩より低く 頭(こうべ)垂れ/それより低く 泪落ち/……わすれまい/十九の師走」を見て、ああこの人は詩人なのだなと思った。
 その後、しばらく見かけなくなった。岡田史子のように筆を折ったのだろうと思い、腑に落ちるところがあった。それからおよそ十年後、思いがけなく『性悪猫』でやまだ紫はカムバックした。わたしは友人の編集者の依頼で、ある雑誌に書評を書いた。その雑誌が出てまもなく、やまだ紫さんから突然電話がかかってきた。旧知の間柄のような親しげな口調だった。その編集者の紹介でわたしは紫さんに会った。その時だったか、あるいは別の時だったかもしれない、紫さんをゴールデン街のバーに案内したこともあった。映画関係者の溜まり場の、カウンターとテーブル席が二つばかりの狭い飲み屋で紫さんは終始上機嫌だった。
 その年の暮れか翌年のまだ膚寒いころ、猫と娘さんたちの住む高島平の団地に招かれた。わたしは河野裕子さんの歌集『燦』を持参してプレゼントした。河野さんから頂戴した署名入りの本だった。たぶん紫さんなら気に入るだろうと思ってのことだ。その歌集には『ひるがほ』より「菜の花」が収録されていた。


  しんきらりと鬼は見たりし菜の花の間(あはひ)に蒼きにんげんの耳


 この連作「菜の花」をモチーフにした名作「しんきらり」が雑誌「ガロ」に連載され始めたのはそれからまもなくのことだった。単行本になった『しんきらり』だったろうか、請われて解説文を寄稿したのは。出来のわるい文章だったが紫さんは喜んでくれた、ように思う。
 その日は、紫さんの手料理をいただき、まんが家の近藤ようこさんと一緒にひと晩泊めてもらうことになった。わたしたちは紫さんが描いていたまんがの背景のベタ塗りを手伝わせてもらった。わたしの唯一自慢にできるまんが家アシスタントの経験である。


 それからまたしばらくたって、いつやら行き来も間遠になった。再婚されたと風の噂に聞いた。わたしは遠くからまんがのジャンルを超えた紫さんのいっそうの活躍をまぶしい思いでながめていた。病気をなさったことも作品をとおして知ったが連絡はしなかった。そして突然の訃報に接することになった。それも亡くなってから十か月も経った今頃に。人の世の無情をおもう。いや、世の中でなく無情はこのわたし自身である。
 『性悪猫』が出たすぐあと、「しつもんがあります」や「はためく」など彼女の初期の作品を蒐めた作品集『鳳仙花』が知人の編集者の手で出版された。彼も紫さんのファンのひとりだった。紫さんから送られてきた『鳳仙花』の見返しには黒のサインペンでこう献辞が書かれていた。


 「――さんへ
   沈黙に勝る 想いはなし だから 無筆が良いと思います。
                     昭和55年10月16日  やまだ紫


 沈黙に勝る想いはなし。わたしもこんな駄文を綴るべきでなかったかもしれない。


性悪猫 (やまだ紫選集)

性悪猫 (やまだ紫選集)