ある日の午後、静かな食堂で


 「ある年のある日の午後、パリの第七区の静かな食堂で、私はE・H・ノーマン E.H.Norman氏とさし向いで晩い昼食をしていた。」*1


 それはおそらく1952年か53年あたりのことだろう。時分どきを過ぎたレストランは閑散とし、ほかに客はといえば二組か三組のカップルだけだった。ノーマンはかれにあるカップルを見るようにうながし、こう問いかけた。「彼らが結婚しているかどうかわかりますか」。かれにはまったく見当もつかなかった。「食事の間二人とも黙っていれば、結婚しているし、たえず喋っていれば、結婚していない」。ノーマンは悪戯っぽい微笑を浮べて言ったにちがいない。「シャンフォール Chamfortがそういったのですよ。」
 セバスチャン・シャンフォールSebastian R.N. Chamfort。箴言集『格言と省察』で知られるフランスの文人だ。


 「私はその冗談を好んだ。そしてそれが、ノーマン氏を私に紹介して下さった渡辺一夫先生の好みでもあったろうと考えた。しかしシャンフォールが大革命の「恐怖政治」のなかで自殺を企てたということには、そのとき思いも及ばなかった。」


 かれは1951年に半給費留学生・医学研究生としてフランスに留学し、パリ大学やパストゥール研究所などで医学の研究に勤しんでいた。カナダの外交官で『日本における近代国家の成立』や『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』などの著書で日本近代史研究者として名高いハーバート・ノーマンとは、52年の秋から冬にかけてパリで開かれた第七回ユネスコ総会で接して以来親しい交わりを持っていた。
 かれ、加藤周一が十二月五日、長逝した。享年八九。七日の朝日新聞朝刊に大江健三郎が追悼文を寄せている。なかにこういう一節がある。


 「先生(渡辺一夫―引用者注)の死後、外国からの永年の来信とそれらへ返信のフランス語による下書きをおさめた箱を、夫人に見せていただいた。カナダの外交官で日本史研究家のハーバート・ノーマンの手紙に、先生の紹介で会った若い医師加藤周一が、世界と自国の文学・芸術に豊かな見識をそなえているのみならず、現在の西欧の政治状況に精通しているのに驚いた、という一節があった。カトウが東京の新聞に書き始めれば、日本のジャーナリズムは変わるだろう。」


 加藤周一がフランスに留学したのは三十二歳のとき。ノーマンは加藤よりちょうど十歳年長である。むろん三十二歳の加藤をさして「若い」と称して不都合はないけれども、これでは二十代で中村眞一郎福永武彦とともに『1946・文学的考察』を著し、花田清輝と「綜合文化」を創刊した加藤周一がまるで無名の文学青年のようではないか。ノーマンが渡辺一夫に宛てた手紙は『ハーバート・ノーマン全集』第四巻(岩波書店)に収められている。1954年1月19日付の手紙より摘記しよう。


 「時々、パリの加藤さんから便りを貰いますが、同地での生活や文学についての観察は大いに刺激を与えてくれます。加藤さんは文学についても時事についても、なみなみならぬ批判的見識の才能をもった人です。もし日本の出版物に何かエッセイを書かれたら、光彩を放つこと受け合いです。」


 加藤周一の文学的出発は決して遅くはない。旧制第一高等学校の時代に中村眞一郎福永武彦らと出会い、「校友会雑誌」に小説を発表し、卒業後もリルケやカロッサの詩の翻訳を手がけている。中村、福永らと「マチネ・ポエティク」を結成したのは1942年、東京帝大医学部生だった二十三歳のときである。『1946・文学的考察』(1947)と同じく真善美社から『マチネ・ポエティク詩集』を出すのは48年のことだが、刊行以前より「マチネ・ポエティク」の名はすでに伝説になりはじめていた、と篠田一士冨山房百科文庫版『1946・文学的考察』の解題で当時を回想している。


 「その頃(旧制松江高等学校時代―引用者注)、ぼくたちの漢文教師だった駒田信二は、教室で漢文を教えるよりも、町中の喫茶店での文壇話に夢中になり、白面の書生相手に、「マチネ・ポエティク」グループの侮るべからざることをしきりと説いてくれた。また、休みになって、生れ故郷の岐阜へ帰省すると、ぼくの家の近くに下宿住いをしていた小島信夫は、この三人の旧友たちを話題にしては、「あのひとたちが将来の日本の文壇を背負うことになるんですよ」と、岐阜人というよりは、このひと特有の物柔らかで、一寸つかみどころのない口調で教えてくれたりした。」


 加藤周一はフランスへ留学する前にすでに評論集も数冊上梓し批評家としての地歩を固めていたし、留学後はパリから「西日本新聞」へ寄稿し、それは55年に帰国するまで続いた。それだけではなく、「文藝春秋」や「文学界」「群像」といった雑誌にもパリから健筆を揮っていたのだから「日本の出版物に何かエッセイを書かれたら」どころの話ではない。加藤は日本での文筆活動などノーマンの前ではおくびにも出さなかったのだろう。だが、「なみなみならぬ批判的見識」は言葉の端々におのずと表れるものだ。ノーマンを回想したこの文章の末尾ちかくで加藤はこう記している。


 「私はノーマン氏との短くまた数多くない会話において、ただ知的刺激をたのしんでいたのではない。無学な無名の青年に対しても決して差別しない態度と細かい心遣いに感動していたのだ。」


 加藤は無名の一学徒としてノーマンに接していたにちがいない。だが、パリの静かな食堂で会話を交わしたその数年後に、ほかならぬ会話の相手が突然の自死を遂げようとは若き医師には思いもよらなかったろう*2
 わたしは生ま身の加藤周一を一度だけ見かけたことがある。五年ほど前のある日の午後、たしか虎ノ門あたりの静かな食堂で、わたしは元新聞記者の著者とさし向いで本の打合せを兼ねた昼食をとっていた。「ほら」と近くの席をさりげなく見るようにかれがうながした。「加藤周一だよ」。新聞か雑誌で見た覚えのある人物がすぐ近くでわたしたちが食べていたのと同じ料理――クスクスを食べていた。
 加藤周一の正面には女性がいて、ふたりは何やら会話を交しているようだったからシャンフォールにしたがえばふたりは夫婦でないということになるけれども、生憎とわたしは矢島翠の顔を知らなかった。わたしたちはまた何事もなかったかのように食事をしながら自分たちの話をつづけた。
 「加藤周一だよ」と言ったときのかれの口調には、どこかしら畏怖するようなニュアンスがあったような気が、いま思うと、しないでもない。

*1:「E・H・ノーマン・その一面」、加藤周一著作集第十五巻『上野毛雑文』所収、平凡社、1979

*2:ノーマンは1957年、カイロのホテルの屋上から投身自殺を遂げた。「赤狩り」の余波がその因とされる。ノーマンの死を悼んだ渡辺一夫の切々たる文章「ノーマンさんのこと」(ノーマン全集第一巻月報)は胸を打つ。