おとぎ話の中で観客はモンスターとなる(その2)


(承前)
 一方、ホラー映画における映像的な特徴は、なによりも被害者の背後からスニークする(忍び寄る)カメラの動きにある。
 ブライアン・デ・パルマは『殺しのドレス』で、美術館の中を逃げまどう女性をステディ・カムを用いた流麗なカメラワークでとらえてみせたが、これはキューブリックが『シャイニング』で、三輪車でホテルの廊下を走る少年をステディ・カムでとらえたシーンに匹敵する名場面だった。ステディ・カムは、カメラマンが手持ちカメラで撮影しても画面がまったくブレないように工夫した撮影装置だが、逆に画面がブレることで観客に恐怖を与える場合もある。すなわち、殺人者の視点で撮影された画面である。
 その最も代表的な例を『13日の金曜日』に見ることができる。アヴァン・タイトルを見てみよう。
 不安定に揺れるカメラがコテッジで眠る数人の男女を一人また一人ととらえてゆく。まるで、獲物を物色しているかのように。カメラは部屋を出て、別室で輪になって歌っている若者たちをミディアム・ロングショットでとらえる。やがて一組のカップルが輪から抜け出し、屋根裏部屋で抱擁を始める。カメラはゆっくりと階段を昇ってゆく。カメラのブレが、階段を昇る何者かの存在を観客に印象づけている。人の気配に気づいた男が立ち上がり「ぼくたちは何もしてないよ」とカメラに向かって弁解を始めたとたん、腹をおさえてうずくまる。腹からは鮮血が流れ出している。事態をさとった女は恐怖におびえながらカメラから逃れようと必死で逃げまどう。スクリーンを見つめる観客は、否応なく殺人者の立場におかれることとなる――。
 この映画では、殺戮を繰り返すシリアル・キラーはラスト近くまで観客の前にその姿を現さない。こうした殺人者による一人称視点のカメラワークは、80年公開のこの『13日の金曜日』あたりから頻繁に用いられるようになった。それより20年前の『サイコ』においても、シャワーを浴びるジャネット・リーに向かってカメラが音もなく忍び寄ってゆく有名な場面があるが、これが殺人者の一人称視点でないことは仔細に見れば明らかだ。
 83年の『死霊のはらわた』では、カメラは時に死霊に取り憑かれた女の子の視点になる。つまり、スクリーンを見つめているわれわれ観客は、登場人物からおぞましげな視線を投げかけられるというわけである。死霊憑きが埋葬される場面では、観客(カメラ)に向かって土がかけられてゆく。
 山小屋という閉鎖された空間で、仲間たちが次々と異物に征服されてゆくなか、最後に残った女性がたった一人で闘いを挑む、という『死霊のはらわた』の舞台を宇宙船に置き換えたのが『エイリアン』(79年)である。というよりも、『エイリアン』を『死霊のはらわた』が換骨奪胎したというべきなのだが。
 このような異物が人間の体内に侵入して支配するというパターンは、最新の『エンド・オブ・デイズ』にまで踏襲されている。ガブリエル・バーンの体内に悪魔が侵入する場面は悪魔の一人称視点によるカメラワークで、『死霊のはらわた』で死霊が女の子の体に侵入するカメラワークとまったく同一である。


 では、こうした殺人者あるいはモンスターの視点によるカメラワークには、いかなる意味があるのだろう。
 ロビン・ウッドは、いまや古典となった恐怖映画論「アメリカのホラー映画序説」(『新映画理論集成1』フィルムアート社)で、モンスターとは個人もしくは文化のなかで抑圧されたもの(女性の性、労働者階級、異文化、他民族、等々)が「他者」として邪悪な形象をまとって現れたものだ、と論じている。ロビン・ウッドの説に従うなら、われわれ観客はモンスターの立場に身を置くことによって抑圧されたものそれ自体と化す、ということになるだろう。
 抑圧されたもの(リプレッション)とは、文化によって個人の識閾下に内面化された圧迫(オプレッション)であるから、観客に向かって恐怖の、もしくはおぞましげな視線を投げかける登場人物もまた観客自身であり、われわれはいわば個人の意識下のドラマに立ち会うことになるのだ。あえて単純化するなら、われわれは「他者」をこういうふうに恐れ、こういうふうに嫌悪しているのだ、と。『13日の金曜日』『死霊のはらわた』などに見られるカメラワークは、こうした構造を白日の下にさらしているのだといえよう。
 68年の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』で、ジョージ・A・ロメロによって恐怖のモンスターとして描かれたゾンビは、およそ10年後の『ゾンビ』』(79年)では、もはや半ば笑いの対象となり果てている。薄笑いを浮かべながらゲームセンターの標的のようにゾンビを狙い撃ちする男たちとゾンビとの関係は、「笑うために」映画館へホラー映画を見に行くマニアと当のホラー映画との関係に正確に対応している。
 ロビン・ウッドの分析が『ゾンビ』のような映画においても妥当するかどうかは、さしあたり留保しておこう。この恐怖映画論(『アメリカの悪夢』というホラー映画論集に収録されたものだ)が発表されたのが『ゾンビ』『エイリアン』と同じく79年、『13日の金曜日』が80年、つまり80年前後を境にホラー映画は“ポストモダン・ホラー映画”ともいうべき段階に入ってきたわけだが、その後の20年の歩みがホラー映画にいかなる変容をもたらしたかは、話題となった『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』を見れば明らかだろう。
                                              (この項了)