岩本素白と結城信一



 以前書いた「「槻の木」の人々――岩本素白素描」(2006-03-12)が偶々来嶋靖生さんの目にとまり、「槻の木」11月号の「その後の「素白先生」」という文章で来嶋さんが引用してくださった。素白が随筆の発表の舞台とした「槻の木」に拙文が掲載されるとは畏れ多いことである。
 来嶋さんは、「岩本素白は原則として「槻の木」以外には文章を書かなかった。板橋のお宅まで私たちは何度か原稿を頂戴に伺った。電車もバスもないところで、帰りに道に迷って困ったこともある」と書いていられる。
 素白の板橋の家は、彫刻家で画家の石井鶴三の旧宅。「「槻の木」の人々」で、素白の早稲田高等学院時代の教え子に小説家の結城信一がいると書いたが、結城信一のエッセイ集『作家のいろいろ』*1に「岩本素白」の文章がある。


 「素白・岩本堅一先生は戦災に遭ひ、万巻の書とともにその家を焼失された。
  「老生昨年の五月廿七日麻布の書屋を喪ひいささか蔵してゐた本を尽く灰にして仕舞ひ、もう文字から離れたいと思つて信濃に流浪の旅に上りましたが……」
  と、戦後にいただいた手紙の中にある。
  東京に戻られた先生は、板橋の石井鶴三氏の旧居に住まはれた。それからしばしば、先生をお訪ねするやうになつた。」


 素白の第二随筆集『素白集』の上板は山内義雄の慫慂によるものであるが、戦火で「多年読み来つた蔵書の一切」と「新旧の文稿の総て」を失い、「宛(さなが)ら老駑の蹄を亡くしたやうな気持であつたが、日夕読み耽つた古人今人の名著を尽く失つて見ると、不思議にも却つて自分の拙い作品に深い愛情を覚えるやうになつた。これも私にこの集を編んで見る気を起さした一つの原因である」と素白はあとがきに記している*2
 没後上板された『素白随筆』の窪田空穂の跋によれば、愚痴はいわない素白が衣類の焼失に関しては空穂に「苦笑しつつこぼした」そうで、その「相応なおしゃれ」ぶりは同書に挿まれた素白先生晩年の、やや草臥れてはいるものの隆とした三つ揃いのスーツ姿に窺うことができる。また、素白が親友石井鶴三の邸宅別棟の離れ屋に移ったのは「両家の細君が、旧本郷菊坂にあった女子美術学校の洋画科の出身者で、無類の親友でもあったことから、自然に決まったことであった」と空穂はいう。

 ふたたび結城信一のエッセイ「岩本素白」に戻れば、


 「「もう文字から離れたい」と悲愴な手紙を書かれた先生は、ふたたび教壇に立ち、読書と散歩の静かな生活を送られてゐた。
 「老友とともに板橋の古い町を歩いたのがきつかけとなつて、秋から蕨、与野、中仙道の古い町をぽつぽつと歩いて見てゐます」
 そんな前書で、


  秋ふかき蕨の町を歩みきて
    古き娼家の跡みいでたり

  人すみて秋日静かなり女たち
    泣きつ笑ひつ暮らしけむ家


 先生からいただいた、晩年の短歌である。」


と結ばれている。
 こうした町歩きをしるした随筆を素白は専ら「槻の木」に寄稿していた。「積もって一集に余りあるものとな」り、山内義雄と空穂が上板を奨めたがこのたびは頑として首を縦にふらず、没後開版された『素白随筆』に「素白集以後」として空穂の懇篤な跋文「素白岩本堅一君の事」を添えて、ようやく多くの人の目にふれるを得たのである。
 素白先生についてはいずれまた書く機会もあるだろう。ここでは、結城信一についての旧稿を再録しておきたい。以前書いた中村昌義とおなじく、書評紙の編集に携わっていた頃、私は結城信一とも瑣細な関わりがあった。結城信一全集が未知谷から刊行された際に、その記憶にふれつつbk1で認めた書評が以下の一文である。



    醇乎たるマイナーポエットの結晶のような佳品


 結城信一は大正5(1916)年、東京に生まれ、二・二六事件の年(昭和11)に早稲田大学英文科に入る。卒業後、いくつかの中学校(旧制)で教鞭をとる。昭和23年、雑誌「群像」に発表した短編『秋祭』で文壇に登場、26年の『蛍草』『転身』、28年の『落落の章』が芥川賞の候補となる。
 本全集月報の年譜に、英文科を卒業後、「大学院に在籍し、日夏耿之介の教えを受ける」とあるが、作品はいわゆる「モダニズム」風ではなく、自らの体験を核に虚構を紡ぎだす端正で静謐な作風。旧かながよく似合う。(ちなみに旧制中学では阿部知二に英語を、高等学院では会津八一に英語を、岩本素白に国文学を教わっている。)

 同年代の作家に、小島信夫(大正4)、安岡章太郎(大正9)、庄野潤三(大正10)、吉行淳之介(大正13)等がいる。結城信一もいわゆる「第三の新人」に属するが、彼らに比して知られるところの寡い作家である。醇乎たるマイナーポエットといっていい。
 安岡(脊椎カリエス)、吉行(肺結核)等と同様、結城信一も生まれてすぐの小児麻痺罹病を始め、度重なる療養生活を送るなど病気がちの生涯だった(1984年没)。そのせいか、死の翳のただよう作品が多い。前掲年譜の昭和11年の項、大学進学につづいて「七月、肺門淋巴線(ママ)炎等のため、千葉市登戸町に転地療養し、井上病院へ通院する。一人の少女と出会う」の記述がある。

 兵役を免除された結城信一は、教員生活をしながら開戦の年(昭和16)、「『冬夜抄』を書く。処女作となる」。結婚し、長男を出生した昭和19年、「戦局悪化に伴い、一巻の遺稿を成さんと藁半紙に小説『絹』を書きはじめる。これがのちに『蛍草』となる」。すなわち、著者にとってのベアトリーチェ、「一人の少女」との出会いと永久の訣れを描いた芥川賞候補作である。純愛という言葉を一抹の気恥ずかしさもなく口にすることのできた時代の物語――現代では望むべくもない透きとおった結晶のような佳品である。


 ――「ただ何か祈つてゐたいといふ気持なんですの。(略)唯、祈つてゐることで幸福なんです。幸福といふことがわかつてきたやうな気がして……」(『蛍草』)


 『蛍草』『転身』『落落の章』、それに『柿の木坂』『序の章』を加えて長編『蛍草』が成った。この全集第一巻で読むことができる。
 晩年、『空の細道』で第12回日本文学大賞を受賞したが、本全集の責任編集者である串田孫一が「彼の仕事を知る人は、もう殆ど居ないのではないか」(月報)と慨嘆しているように、今では作品を読むことすらたやすくはない。それだけに、この全集(全3巻)の刊行は読者にとってこのうえない悦びである。


 私は今から25年ほど前、『萩すすき』(青蛾書房)という小品集で著者と出合った。あるところに短い紹介文を草し、失礼を承知で感想とともに掲載紙をお送りしたところ、思いがけず丁寧なお礼状が届いた。人柄を表すような几帳面なペン字だった。「結城信一っていいですね」とある人に感想を洩らしたら、わが意を得たりと当時すでに入手困難だった2冊の短編集を頒けてくださった。このたびの見事な造本の全集を手にして、そうした熱心な愛読者に支えられた作家の幸福を思った。
 その人、荒川洋治氏から戴いた『鎮魂曲』の見返しには、著者の署名が墨痕あざやかにしたためられていた。
                                               (2000.12.12)


 結城信一の二冊の書――『鎮魂曲』は、創文社、昭和四十二年刊の初版、『鶴の書』は同、昭和三十六年刊の初版、いずれも二冊所持しているのでお頒けする、代金及び送料のみ戴きたいとの手紙が附されてあった。私は、刊行当時の定価、四百二十円、二百九十円に送料を足して送ったか手渡したかしたのだろう。荒川さんが古書展で購ったときの値段は聞かなかったように思う。代金を頂戴するというのはこちらに負担をかけまいとする気遣いである。当時の古書価は知らないが、結城信一のサイン入り初版本はいまでは一万円をくだらない。
 結城信一から届いたお礼の葉書は、中井英夫からの来翰などとともにどこかに保管してあるはずだが、整理が悪くて未だ見つけられずにいる。

*1:結城信一『作家のいろいろ』、六興出版、一九七九年

*2:『素白集』は昭和二十二年=一九四七年の開版、『素白随筆』春秋社、一九六三年に拠る。