「あんなこと」や「こんなこと」――川端康成『雪国』について

 

 今年は川端康成の没後50年にあたる。そのせいか、NHKBSプレミアムで『雪国―SNOW COUNTRY―』が放送された(4月16日)。脚本藤本有紀、演出渡辺一貴、主なキャストは駒子が奈緒、島村が高橋一生、葉子が森田望智。奈緒の演ずる駒子は、「清潔な」と称されるとおりの透き通った表情で、雪景色のなかにひっそりと佇む姿は儚げで息を呑むほど美しい。いまどきの女優さんにはめずらしい雰囲気がある。

 冒頭、汽車に乗った島村が温気にくもる窓ガラス越しに葉子を認める場面。蒸気機関車の汽笛の効果音が入る。だが実際は、国境の長い(清水)トンネルを越えるには、煙の出るSLではなく電気機関車が用いられたといわれる(2つの映画版でも汽笛が鳴っていたが、これはもう定番か)。ちなみに、このBSドラマ版では島村のモノローグ(ナレーション)で物語が語られるが、冒頭では「国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると」と発音され、ラストで再度繰り返される際には「国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると」と発音されていた。「国境」の読み方には周知のように従来から議論があり、ここでは折衷案を取ったというところか。大庭秀雄監督『雪国』の予告編をYouTubeで見ると、「くにざかい」と発音していた。

 さて、今回のドラマ版は、島村のモノローグで物語が進行するため、駒子の内面は雪のヴェールに包まれたようにミステリアスだ。しかし、そのもどかしさに応えるかのように、ドラマは後半にちょっとした仕掛けを施し、駒子の内面を明らかにしてみせる。それについては後述するが、ドラマ版を見た余勢を駆って映画版の『雪国』を観る。豊田四郎監督の1957年の名作。岸恵子の駒子に魅了される。指先の、髪の毛の、一本一本までコケティッシュだ。その色香はときに妖艶ささえ感じさせる。八千草薫の葉子は対照的に清楚で、この世のものと思えぬほど神々しい。島村役の池部良岸恵子カップルに小津安二郎の『早春』が重なる。『早春』は『雪国』の前年、1956年公開だから、『雪国』のカップルに『早春』がなんらかの影を落としていたかもしれない。観客は当然二作を重ね合わせて観ただろう。

 続けて、小説『雪国』を読む。以前、再読しようと購入してそのままになっていた新潮文庫版である。中央公論社版の全集「日本の文学」で読んだ中学生以来の再読になるか。この小説は、徹頭徹尾、おとなの男と女の話であって、加うるに仄めかしと大胆な省略で読者を眩暈する。当時なにをどう読んだものやら覚束ないが、所詮中学生にこの小説がわかるわけがない。再読してそう思った。

 たとえば冒頭、島村が温泉宿の廊下で駒子と再会する場面。文庫版では16頁。

あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果さず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが(後略)

 なんの説明もなく突然「あんなこと」と書かれているので、読者は読み飛ばしてしまいかねないところだ。文庫版には以下のような「注解」が附されている。筆者は郡司勝義氏。

*あんなこと 著者は性にかかわる場面は、すべて直接に表現せず、ぼかして暗示的に表現をなしている。それが、一層深い含みをもたらしてくる。

 少し前の場面からたどってみよう。

 島村は、駅の待合室で青いマントを着て頭巾を被った女を見かけてはいたが、それが前に会った駒子だとは思わなかった。宿に着き、湯から上がって部屋に戻ろうとしたときに、長い廊下のはずれの帳場の曲がり角に、お引き摺りと呼ばれる裾の長い着物を着て立っている駒子がいた。小説では「女が高く立っていた」と書かれており、それを生かすためだろうか、BSドラマ版では階段を上りきった二階の踊り場で島村に背を向けて立っている駒子を仰角でとらえる。映画では、原作通り、駒子は長い廊下のはずれに背を向けて立っており、島村の存在を背中で感じるとくるっと振り返りわずかに微笑んでみせる。その駒子をカメラがズームしてバストショットでとらえる。駒子との再会がこのたびの逗留の目的でもあったのだから、島村は駒子の姿を見ても着物の長い裾から「とうとう芸者に出たのか」と思いはしても、出会ったことへの驚きはなかっただろう。いっぽう、駒子はといえば、島村がふたたび当地にやってきたことを知る由もないので、どこかで島村の姿を見かけたのか、あるいは宿の女中に教えられたのかもしれない。廊下での遭遇はむろん偶然ではなく、意図してのものだ(むしろ待ち伏せていたというべきか)。ふたりは「やあ」とも「おひさしぶり」ともいわず、示し合わせていたかのように黙って二階の部屋の方へと歩き出すのだから、ほとんど「道行」の場面といっていい。

 そして前述の「あんなことがあったのに…」に続くのだけれど、「あんなこと」といわれても中学生にはチンプンカンプンだったろう。島村はナシのつぶてにうち過ぎたことを後ろめたく思ってはいたが、駒子は「彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じている」風情で、「なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて」、つい調子に乗って「こいつが一番よく君を覚えていたよ」と人差指を女の目の前に突きつけるのだから、ただのエロおやじだというしかない。そう思いませんか? 駒子は「そう?」とさりげなさを装いながらその指を握ったまま階段をのぼり、部屋に入ったとたん「さっと首まで赤くなって」いるのだから、むろん、その人差指がなにを意味しているかは百も承知だ。

 小説の冒頭、汽車のなかで島村は退屈まぎれに人差指を動かしながら「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」と思い、記憶のなかの女の姿はぼやけていても「この指だけは女の触感で今も濡れていて(略)鼻につけて匂いを嗅いでみたり」するのだから、「あんなこと」の正体は「こんなこと」かと大人にはわかるけれども中学生にはいささかハードルが高いだろう。文庫本には、「この表現は、きわめて触覚的で暗示的であり、肉感的な連想をさそう」と注記が施されているけれども、この注記じたいが「暗示的」で、性体験のない中学生にはもどかしさを感じるばかりだろう。

 以前ここで、水村美苗の「ノーベル文学賞と『いい女』」という、『雪国』の英訳について書かれたエッセイを紹介したことがある。

qfwfq.hatenablog.com

 英訳者のエドワード・サイデンステッカーは『雪国』の「際どいエロティシズム」を中和するために、たとえばこの「鼻につけて匂いを嗅いでみたり」という「非常に強烈な文章」を省略している、と水村美苗が指摘していた(サイデン氏はhe brought the hand to his face,「手を顔に持っていった」と訳している)。むろん、その一種の「自己検閲」が川端のノーベル賞受賞に寄与したと水村は考えているのだろう。

 さすがに映画の池部良は人差指の匂いを嗅いだりといった品のない真似はしなかった。まさかね。第一、窓硝子の曇りを掌で拭うと向かいにいる八千草薫の姿がファンタスマゴリーのように現れる場面では、たしか手袋をしていたはずだ。

 それはさておき。小説では、この再会から一転して、ふたりが初めて会った場面へとプレイバックする。島村は宿の女中に芸者を呼んでくれと頼むが、生憎とみんな出払っていて、踊りの師匠のところにいる娘なら呼べるかもしれない、と女中はいう。やってきた女に、島村は不思議なほど「清潔な感じ」を受け、歌舞伎の話などを夢中でしゃべる女に「友情のようなもの」を感じる。翌日、再び訪れた女に、島村は芸者を世話してくれと頼む。よくそんなことを頼めるものだと憤慨する女に、君を友達だと思うから口説かないんだ、という島村。口説かないのはよしとしても、なぜ彼女に芸者の斡旋を頼んだのだろう。女を揶揄ってその反応を確かめてみたいとでも思ったのだろうか。これってセクハラだよねえ。「島村はこうなればもう男の厚かましさをさらけ出しているだけなのに」と書かれているので、自分でもその理不尽さ(セクハラ)を自覚してはいたのだろう。島村にすればとりあえず性欲を満たすための相手がほしかっただけで、目の前にいる女はまだ十代の素人で、身の上話を聞くとなにやら事情がありそうなので、そんな「身の上が曖昧な女の後腐れを嫌う」という気持ちもあって女に手を出さなかったのだが、それにしても彼女に芸者の斡旋を頼むのは筋違いというほかない。

 結局、女中が呼んで、やってきたのは人はよさそうだけれど「いかにも山里の芸者」といった、おそらく垢抜けない十七、八のお姉ちゃんだったので、すっかりやる気を失ってむっつりしていると、「女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて」、島村は芸者を帰すために郵便局に行こうと芸者と一緒に部屋を出るのだが、この箇所に附された注釈が不可解だ。

*黙って立ち上って 客つまり島村に気に入られないで、断わられたと、この女は判断したため。

 これではまるで立ち去ったのが芸者のようだ。駒子は島村と芸者をふたりにするために気をきかせて立ち去ったのだが、注釈者のカンチガイを誘発した原因のひとつに名前の表記がある。小説ではここまでずっと駒子を「女」と呼んでいた。島村が駒子に初めて会ったとき、彼女はまだ芸者ではなかった。そして再会したときもまだ島村は彼女の名前を知らない。島村が彼女の源氏名を知るのは、再会した翌日、文庫本でいえば49頁、「今朝になって宿の女中からその芸名を聞いた駒子もそこにいそうだと思うと」で、初めて「駒子」の名が登場する。小説は島村の視点に寄り添うように、それ以降「女」ではなく駒子と表記することになる。三人称で書かれた小説で、この律儀な書き分けは珍しい。ちなみに、映画には、再会したばかりの駒子に島村が「おい、駒子」と呼ぶ場面があるが、これはmistakeだろう。

 ともあれ、奥付を見ると、この文庫が最初に発行されたのは「昭和22年7月16日」となっている。郡司勝義氏の注釈は、おそらく「平成18年5月30日 132刷改版」からだろう。わたしがいま手にしているのは「平成24年12月20日 148刷」である。それ以降にこの注釈に訂正が施されているのかどうかはわからないが、少なくとも改版が発行されてから6年間は見過ごされてきたわけだ*1。ついでに書いておけば、芸者と一緒に部屋を出た島村が、芸者を残して裏山のほうへひとりで上ってゆくと、二羽の黄蝶が島村の足元から飛び立ち、「もつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」という箇所に附された注釈、

*蝶はもつれ合いながら この個所は駒子と島村との愛が破局に至るであろうことを暗示している。

 これは、角川文庫版『雪国』の澤野久雄の解説、

この小説の主人公は、山の宿で駒子に会うことを楽しみにしていながら、舞い上がる黄色い二匹の蝶に、いったい、何を見ているであろうか。「黄色が白くなってゆく」のは、やがては薄れるであろう愛の、はるかな予感であろうか。あるいは命の、薄れであろうか。

に示唆されてのことかも知れないが、注釈は批評や感想を述べる場所ではなく不適切だろう。

 澤野の解説文にしても、蝶が飛び立つのを島村が見たとはテキストのどこにも明示されていないのだから、こちらも不適切というしかなく、いわんや「薄れる愛の予感」だの「命の薄れであろうか」だのと感慨に耽っているのはみっともない。こうした埒もない「深読み」を誘発するのは川端の思わせぶりな書き方のせいであって、罪深い。

 こんな調子で小説を逐一辿っていると、BSドラマ版の「ちょっとした仕掛け」にまでなかなか到達しないが、長くなったのでこのあたりでいったん休止して、続きは後日にしよう。後日が数か月先にならないようにしたいものだ。

                           ――この項つづく

 

豊田四郎監督『雪国』より

 

*1:書店で確かめてみたら、「令和2年8月5日 157刷」でもこの注は健在だった。5月2日記