犬と狼のあいだに――翻訳について



 ――夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

 小説の冒頭といえばすぐに思い出すのが『幻の女』だ。名文句の定番といってもいいだろう。原文は以下のとおり。


 The night was young, and so was he. But the night was sweet, and he was sour.


 「恋人よ我に帰れ」Lover, Come Back To Meの、


 The sky was blue, and high above. The moon was new, and so was love.


をもじったものであることはよく知られている*1
 現在、流通しているハヤカワ文庫『幻の女』では、訳文に若干手が入って、


 「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。」


となっている。
 稲葉明雄の名訳。かつてのポケミス版『幻の女』は黒沼健訳で、冒頭の一節はこう訳されていた。


 「夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といつたところだつた。甘美な夜だつたが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。」


 対句を駆使したきびきびとした原文の調子とくらべると、黒沼訳はややもったりした感じが否めないが、とはいえいかにも日本語らしい訳文といえるだろう。いまの若い読者は「宵の口」とか「人生の序の口」といった表現になじみが薄いかもしれないが、半世紀前の翻訳としては日本語らしい「こなれた」いい訳といっていいだろう。 
 The night was youngを「夜は若い」と訳すのはいわば直訳で、一般的にはこうした直訳はあまり推奨されないかもしれない。だが『幻の女』では、直訳がかえって清新な感じを与えている。


 レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』の清水俊二訳と村上春樹訳とを比較対照して論じた山本光伸の『R・チャンドラーの「長いお別れ」をいかに楽しむか』*2に、これとよく似た例が出ている。
 チャンドラーの原文は、


 We went out into the tired evening and he said he wanted to walk.


 清水俊二訳は、
 「私たちが外に出ると、彼は歩きたいといった。」


 村上春樹訳は、
 「わずかに暮れ残った夕闇の中に出た。少し歩きたいと彼は言った。」


 それに対する山本光伸のコメントは、


 「ここでの問題は、tired eveningをどう訳すかだ。夕暮れ時を刻んで(疲れて)闇に溶け込む前のことを指しているのだろう。The night is still young.――まだ宵の口だ。このyoungの使い方とよく似ている。」


 山本の試訳は以下の通り。
 「暮れなずむ外に出ると、彼は少し歩きたいと言った。」


 以前、村上春樹の新訳『ロング・グッドバイ』が出たときに、書評を書くために村上訳と清水俊二訳とを対照したことがある*3。村上訳は原文にかなり忠実に翻訳されていたが、清水訳では往々にして一部が省略されていた。上記もその一例である。
 村上訳と山本訳とでは、いずれも同じ状態を述べているのだが、「わずかに暮れ残った夕闇」を日本語の慣用句でいえば「暮れなずむ」になる。こちらの方がより「こなれた」訳ということになるが、村上は「暮れなずむ」といったやや情緒的な表現を嫌って即物的な表現を選んだのかもしれない。たとえば、これを「彼は疲れた夕方のなかへ出た」と直訳するとどうだろう。「夜は若い」と同じく擬人法だがこれには無理があろう。あるいは誤訳といわれるかもしれない。


 山田俊雄柳瀬尚紀の対談集『ことば談義――寐(ね)ても寤(さめ)ても』*4にこういう例が出ている。
 「羊腸」という言葉がある。山道などの曲りくねったさまをいう言葉だが、もともとは文字通り羊の腸。大辞林にはこう書かれているという。「羊の腸。乾燥してひも状にしたものを楽器の絃などに用いる。ガット」。ガットギターのガットですね。わたしが昔もっていた安物のガットギターはナイロン絃だったけれども。
 柳瀬尚紀シェイクスピアの『空騒ぎ』から「羊のはらわた(腸)が人間の体から魂を引き出す」という台詞を引用してこう述べている。「つまり、羊の腸を引っ張り出して弦楽器を作るわけで、その絃による調べがまた人間の体から魂を引き出すということで、実にシェイクスピアはうまいんですね」。英語で”sheep’s guts”と言ったときに、そうした含意を認めて観客は「そこでワッと笑った」わけである。
 山田先生はこう仰っている。「外国文学を翻訳するとき、翻訳された側のことばの世界で分る語に置き換えることが有効なように思われるけれど、それは必ずしもいいとは限らない」。それに対して柳瀬は「その通りです。逆にまた、そこの国のイメージを引っ張ってくる場合があります」と応接している。
 『幻の女』に話をもどせば、「夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口」だったは「有効」に思われるが「必ずしもいいとは限らない」。つまり、「夜は若く、彼も若かった」という表現には、The night was young, and so was he.という原文が日本語の向こうに透けて見え、さらに羊皮紙の写本(パリンプセスト)のようにその下からジャズのスタンダードナンバーの歌詞が浮び上ってくるのである。もっとも「翻訳にはちょっと古めの言葉を使え」という格言がその世界にはあるそうで*5、黒沼健もその格言に従ったまでのことかもしれない。
 以前、『英語クリーシェ辞典』について書いた書評をここに掲載したことがあるけれど*6、ことわざや紋切型の表現も日本語のそれに置き換えずに「そこの国のイメージを引っ張ってくる」ほうが面白い場合も少なくない。フランス語にentre chien et loup(犬と狼のあいだ)という表現がある。キマイラのような動物のことではなく、犬と狼とのわかちがたい時刻、いわゆる「黄昏時」を指すことばである。アーティストのローザ・スコットさんは自分の作風をentre chien et loupという言葉で表現している。


「Entre chien et loup(「犬とオオカミの間」または「たそがれ時」という意味を持つフランス語)は、いろいろな形で私の作風を表現するときに使われる多層的なフランス語表現です。その言葉は、一日のうちの特別な時間帯を意味しています。犬とオオカミとの区別がつかないほどに辺りが暗くなりかけたころで、夜になる前くらいの時間帯のことです。明るさの程度がどのくらいかということばかりではなく、「慣れ親しんでいて心地よいものvsよくわからなくて危険なもの」との境目をも表しているのです。それは、希望と恐怖の間にある不確かな仕切りでもあるわけです。 私は、芸術との出会いがもたらす明快さやあいまいさ、即時性に関心があります。自分の絵画は、ロマンチックな風景を表し、また、はかなさや傷つきやすさ、勇気という観念に触れる心の風景だと思っています」*7


 日本語でいえば、黄昏時というよりも「逢魔が時」といった感覚により近いだろうか*8

*1:「『幻の女』の冒頭の場面が、対句みたいになっているのは有名ですが、あれも有名な流行歌「恋人よわれに帰れ」をもじったものですね。いつか田村隆一さんの書斎の写真みたいなのを雑誌でみましたが、あの文句がお好きなのか、花壜に英語で書いてあったのを憶えています」(稲葉明雄)/世界ミステリ全集4「ウイリアムアイリッシュコーネル・ウールリッチ」巻末付録の座談会、1973、早川書房

*2:柏艪舎、2013

*3:id:qfwfq:20070414

*4:岩波書店、2003

*5:宮脇孝雄『英和翻訳基本辞典』研究社、2013。一応「辞典」となっているけれど、「読み物」として面白い本。

*6:id:qfwfq:20081116

*7:http://sendai-christchurch.tumblr.com/Rosa-Scott

*8:ちなみにサーシャ・ソコロフに『犬と狼のはざまで』という小説がある。東海晃久訳、河出書房新社、2012