フィアルタの春――ナボコフ再訪(2)


   1

 前回とりあげた『小説のストラテジー』で佐藤亜紀は「作品」とは何かと問いかけ、絵画の場合は「一定の面積の上に配置された、色彩とマチエールを持つ線と面の集まりだ」と定義したうえで(「かなり旧弊な定義だ」と断りつつ)、受け手にとって「今日、問題となるのは」と自答しています。


 「何らかの対象を再現することから表現を汲み上げる具象画でさえ、今日、問題となるのは、色彩と明暗の配置であり、線の流れであり、描かれたものを問題とするにしても、光線であり、感触であり、リアリズムや感情の表現や主題を問題とするにしても、それが画面の中で果している機能をどう感じ取るか、ということになる訳です。」(第二章「フィクションの『運動』」)


 一方、映画や小説はここまで抽象化するのは困難だけれども、「作中の事件や人間関係や感情や思弁やアクチュアリティを読むこと」が「小説の快」だとするなら小説とはなんと貧しいものかと述べ(むろん映画も同様でしょう)、「芸術の快楽とは表面の快楽であり、芸術の問題は、最終的には、表面の問題に帰着する」と断言します。
 では、映画や小説における表面とはなにか。佐藤氏はそれを「記述」であると言います。「対象を指し示しつつ、動いて行」くもの。「対象を語り、対象の置かれた状況を語り、状況の変遷を語って、絶えず動き続け」るもの。「こうした記述の運動を把握し、固有の色彩とマチエールを味わい、複数の動きがあるなら相互の関係を見出し、あるロジックを持つ総体に組み上げ、評価すること」が「フィクションを読む」ことであると佐藤氏は述べています。
 むろん、映画や小説で「作中の事件や人間関係や感情や」といった、総じて物語を見る(読む)ことに快楽を感じる観客や読者もいるでしょう。ただ、そうした受け手であっても「表面」が、すなわち光線や色彩が単調であったり、あるいは物語を表現する言葉が鈍かったりすれば、物語をよりよく楽しむことはできないにちがいありません(弛緩した画面や文章であっても頓着しないという受け手はこの際除外するとして)。それゆえに、「物語だと我々が思い込んで読んでいるのは」と佐藤氏は強調することになります。「しばしば、「運動」のことである」と。
 具体例として、佐藤氏は『アガメムノーン』と映画『サイン』(M.ナイト・シャマラン)をとりあげてその記述の運動を分析するのですが、その詳細は本書をご覧いただくこととして、ここではこの章の終りで佐藤氏がとりあげているウラジーミル・ナボコフの短篇小説「フィアルタの春」について若干感想を述べてみたいと思います。


   2

 ナボコフのこの小説を佐藤氏は「さらりと読み流してもよくできた短篇」であると述べます。「ややひねった文章も、ゆったりしたテンポも、音楽的」であるけれども、それは「上質な短篇」以上のことでない。「そのどこが、技巧の鬼ナボコフのお気に入りだったのか」と疑問を投げかけます。そして間髪を入れずこう答えます。「ちょっと信じられないようなことをやってのけているからです」と。
 「フィアルタの春は曇っていて、うっとうしい」と書き始められるこの小説は、それゆえに「全てが灰色に煙って」いると佐藤氏は指摘します。


 「最初の段落の風景をよく覚えておいて下さい。特に、遠くに見える「青白いかすかな光に照らされた聖ゲオルギー山のおぼろな輪郭」(沼野充義訳、一四六頁)がポイントです。それから色です。土産物屋の紫水晶と、海のくすんだオリーヴ色。どちらも薄暗い灰色の中に溶け込んでいます。この小説に鮮やかな色は他に三つしか出て来ません。赤と、黄色と、最後の方に登場する菫の暗い色です。」(A)


 「光線は極めて意識的に計算されており、色彩設計もほぼ完璧に為されています」と佐藤氏は述べています。小説家の誰しもが小説の記述においてこうした映画における画面設計のようなことを行なっているわけではないでしょう。「言葉の魔術師」と称されたナボコフが、とりわけ気に入っていたというこの「フィアルタの春」の、しかも小説のトーンを提示する導入部はことさら精緻で、「さらりと読み流しても」物語を享受するうえでさして支障は生じないかもしれませんが、それではこの小説の本当の素晴しさはわかりません。
 佐藤氏が用いているテキストは『ナボコフ短篇全集 2』(作品社)所収の沼野充義訳ですが、沼野氏もこの「やや」ではなく大いに「ひねった文章」には聊か手を焼いているようで、既訳*1と比べれば格段にすぐれた翻訳ではありますが、ナボコフの「ちょっと信じられないような」技巧を充分に伝えきれているとは申せません。翻訳の限界というお決まりの言葉をつい口にしたくなってしまうのですが、これは元々ロシア語で書かれたものをナボコフ自身が共訳者の援けを借りて英訳した作品であってみれば、翻訳の限界などといって済ますわけにもゆきません。もっとも、作者の手になる翻訳なのですから、翻訳の困難な個所はあらたに創作してしまったという可能性もあるわけですが。
 キューバの作家カブレラ=インファンテは自作を自身で英訳する際に英語による言葉遊びをしこたま追加して、とうとう原著より五十頁も多い英語版をこしらえてしまったそうですが、地口、洒落好きではナボコフも負けてはいませんから、あるいはこれはロシア語版とは異なる英語版のオリジナルというべきなのかもしれません。ロシア語版と英語版との異同に関する注釈などを沼野氏がやってくださると有難いのですけれども。


 では、ナボコフの技巧の冴えを具体的に見てみましょう。まず、佐藤氏がこの小説のポイントであるという個所ですが、この前後の文章は翻訳では次のようになっています。


 「青みがかった家々は、やっとのことで立ち上がり、手探りで支えを捜そうとしている人たちのようだ。彼方には、その家並みをでこぼこで不揃いな縁取りにして、青白いかすかな光に照らされた聖ゲオルギー山のおぼろな輪郭が見えているのだが、その姿が絵葉書のカラー写真とこれほど似ていない季節は他にないだろう。この山の絵葉書は(ご婦人がたの帽子や、辻馬車の御者たちの若々しい姿から判断して、写真はおよそ一九一〇年頃のものではないか)、紫水晶アメシスト)の結晶を歯のようにむきだして見せる石と貝殻が織り成す海のロココ美術の間にはさまれ、固まりついて動かなくなった回転木馬のような売り台の上で押し合いへし合いしていて、旅行者がやって来るとすかさず出迎えてくれる。」


 家々も遠くに見える山も「青白いかすかな光に」照らされている。その風景画のような光景は、しかし、それを写した絵葉書の写真とは似ても似つかない。そしてその古ぼけた写真の絵葉書(訳文にはなぜか省略されていますが、次ぎの段落の頭に、今は一九三〇年代の初めである、と出てきます)が、土産物売り場の台の上に他のがらくたと一緒に載っかっている。そうした描写です。英語の原文ではこうです。


 Far away, in a watery vista between the jagged edges of pale bluish houses, which have tottered up from their knees to climb the slope ( a cypress indicating the way ),the blurred Mount St. George is more than ever remote from its likeness on the picture postcards which since 1910, say (those straw hats, those youthful cabmen), have been courting the tourist from the sorry-go-round of their prop, among amethyst-toothed lumps of rock and the mantelpiece dreams of seashells.


 1センテンスです。英単語の喚起するイメージを伝えるために沼野氏は原文にない言葉を補っていますが、それがやや説明過剰になっている憾みもなしとしません。このあたりは、以前とりあげた『白鯨』の翻訳の問題とも重なるところでしょう。ここでも( a cypress indicating the way )がどうしたことか省略されていますが、この糸杉は小説の終結部において次のように印象深く再登場します。 「家々の入り乱れた屋根の向うには、イトスギがただ一本立っていて、遠くからだと水彩用の絵筆のそっくり返った黒い先端のように見える」(翻訳一七二頁)。
 暖炉の上に載っているような貝殻でできた安っぽい装飾品を「海のロココ美術」と訳しているのは、次ぎの段落におけるmarine rococoを先取りしたものでしょう。
 このセンテンスにつづく2センテンスの原文と訳文を掲げておきましょう。これで最初の段落が終わります。


 The air is windless and warm, with a faint tang of burning . The sea, its salt drowned in a solution of rain, is less glaucous than gray with waves too sluggish to break into foam.

 「空気は暖かく、焦げ臭いにおいを漂わせている。海は雨をたらふく飲んで塩気も薄れ、くすんだオリーブ色になった。波はもっそりしていて、泡立とうにも、決して泡立つことができない。」


 海は凪いで、金属のスラグのようにどんよりとして波打つこともない。その色はグレーというよりもglaucous(青みがかった灰白色)である。「青みがかった灰白色」であるとナボコフが強調するのは、「全てが灰色に煙って」(佐藤氏)いるフィアルタの町の、その灰色の階調の微妙な差違にこだわっているからにほかなりません。たとえば、「青みがかった灰色の古い歩道」(slate-blue sidewalk)や「灰色のお腹」(mud-gray little belly)の男の子といったように。
 灰色にどんよりと曇ったフィアルタの町にまず登場するポイントの色は紫です。先に引用した個所(A)につづけて佐藤氏はこう書いています。


 「赤は血の色ですし、黄色は事故車の色です。菫の暗い色は、最初に登場する紫水晶の色から来ており、フィアルタという「名前の響きのくぼ地に、あらゆる花のうちでも一番ひどく踏みしだかれてきた小さく暗い花」(一四七頁)の色でもあり、この小説の中で明度を落として行く唯一の色です。」
 (中略)
 「(絞り込んだ色は)あまりにも意味の明白な赤は措くとすれば、補色関係にある黄色と紫であり、ニーナのスカーフと菫の花束に意識的に配置されます。イメージの連鎖においては、菫の色は土産物屋の紫水晶と、フィアルタという地名に繋がり、明度を落としきった状態では、ニーナが主人公に遊び半分のキスをしたロシアの真冬の夜に行き着きます。」(B)


 紫水晶アメジスト(英語ではアメシスト)が「フィアルタという地名に繋が」るというのは、こういうわけです。


   3

 佐藤氏が(B)で引用している訳文を含む1センテンスの原文と訳文を掲げます。冒頭第二段落の途中からになります。


 I am fond of Fialta; I am fond of it because I feel in the hollow of those violaceous syllables the sweet dark dampness of the most rumpled of small flowers, and because the altolike name of a lovely Crimean town is echoed by its viola; and also because there is something in the very somnolence of its humid Lent that especially anoints one’s soul.


 「ぼくはこの小さな町が好きだ。それは、この名前の響きのくぼ地に、あらゆる花のうちでも一番ひどく踏みしだかれてきた小さく暗い花の砂糖のように甘く湿った匂いが感じられるからだろうか、それともヤルタという響きが調子っぱずれに、しかしはっきりと聞こえるからだろうか。あるいはこの町の眠たげな春がとりわけ魂に香油を塗りこむような作用を及ぼすからなのか。わからない。」


 青紫色の(あるいはスミレ科の)音節(violaceous syllables)の窪地に小さな花の甘くて暗い湿り気を感じる。小さな花とはむろんスミレ属(viola)の花あるいは菫(violet)にほかなりません。そしてクリミア半島の愛らしい町(ヤルタ)の名が、ヴィオラ(菫)によって、ヴィオラの奏でる中高音のようにエコーする。このヴィオラダブルミーニングであるのは言うまでもありません。
 佐藤氏が「ニーナのスカーフと菫の花束」と述べている個所、翻訳では「どこからともなく彼女の手にはぎっしりと花の詰まった束が現れた。無欲に香りを放つ、暗い色合いの小ぶりなスミレだった」のスミレ(原文ではviolets)に「フィアルカ」とルビが振られているように、ロシア語でフィアルカ(фиалка)とはまさに菫にほかなりません。英語のフィアルタとヴィオラ以上に、ロシア語では両者の近接が明らかです(ここだけでなく、他の個所においてもロシア語版を参照したルビ――二人称のyou/thou、トゥイ/ヴイの使い分けなど――が振られていること、そして英語原文と翻訳文との細部の食い違いなどを勘案すれば、この翻訳はロシア語版によるものかもしれません)。


 冒頭の二段落を見ただけで、ナボコフの超絶技巧は明らかです。この灰色に沈んだフィアルタの町が小説の終結部にいたって日の光に満たされて徐々に明るく輝いてゆく描写の美しさは比類のないものです。そのコーダを際立たせるためにナボコフは冒頭でこれでもかとばかりに灰色を塗り重ねていったのです。その感動的な描写を佐藤氏はこう簡潔に記しています。


 「長いエンディングですが、この滑らかな記述の中で、露出はどんどん上がり、被写体は白く霞み、一番暗い花束の影だけが最後まで残るものの、それも消えてしまって、ミラノの駅にフェイドインする訳です。映画でも白くフェイドアウトするのは変則的なやり方ですが、小説で同じことを、それもこれほど効果的にやってのけた作例はないでしょう。感傷的な恋愛譚を口実に、回想や意地の悪いポルトレを交え、天候と色彩を操りながら着々と準備をして、最後のフェイドアウト/フェイドインに持って行く。作品は総体としてながめなければならないものですが、この大技こそ、『フィアルタの春』という凡庸な筋書きを持つ非凡な作品のニュアンスと動きを決定しているのは、間違いのないところです。」


 むろんこのナボコフの大技、小技は翻訳をつうじてでも享受できなくはありません。しかし、いままで述べてきたような細部を味わうには、やはり原文に就くに如くはありません。辞書を片手に単語を一字一字引きながら小説を読むのは面倒に違いないですが、その面倒さを補って余りある快楽を与えてくれるのがナボコフの小説なのです。


*1:ナボコフの一ダース』中西秀男訳、サンリオSF文庫所収。のちに、ちくま文庫