ロリータ、ロリータ!――ナボコフ再訪(3)



 『ロリータ』が文庫になった。若島正の手になる新訳単行本が刊行されたのが昨年の十一月だから、カポーティの新訳『冷血』と同じく一年たらずで文庫になったわけで、これには聊か驚いた。今回の新潮文庫版では訳文に斧鉞が加えられたのみならず、新たに四十頁におよぶ注釈と大江健三郎による解説とが附されている。単行本をまだ読んでいない人は文庫版がお買い得ということになるのだけれども(と書いて思い出したのは、岩井克人が自著の文庫版のあとがきで、文庫版は廉価版なので元の単行本以上の附加価値を附けるのは資本主義の原則に反している、だから解説なども附けないのだという意味のことを書いていて、経済学者というのは変なことを考えるものだなあと感心したのだけれども、それはさておき)、巻末の訳者あとがきは文庫版では大幅に短縮され、その結果、単行本あとがきにあった重要な指摘なども姿を消してしまっている。そのあたりを中心に、今回もナボコフの翻訳の問題について若干書いてみたい。


   1

 『ロリータ』には、単行本にも文庫版にも(原著にも)ナボコフ自身の手になる解説が附されている。これはナボコフが自作について率直かつ皮肉まじりに書いた極めて興味深い文章であるけれども、そこで書かれているように『ロリータ』の原稿はアメリカの四つの出版社で出版を断られた挙句、一九五五年にパリのオリンピア・プレスから出版された(むろん英語版である)。ここがエロティックな小説を出版することで有名な出版社であったことから『ロリータ』はスキャンダラスな書物と見なされ、アメリカで刊行されたのはその三年後の五八年だった。アメリカでは発売後三週間で十万部が売れて、これは『風と共に去りぬ』以来の記録であったそうだが(訳者あとがき)、それはヨーロッパにおける「スキャンダル」が前評判となっていたためにちがいあるまい。
 日本で大久保康雄による翻訳が出版されたのはアメリカ版の半年後の五九年二月で、この河出書房新社から出た上下二巻の翻訳*1に「誤訳が多いという批判が起こって」、改訳版が出たのが七四年、「それにさらに手を加えたものが、一九八〇年に新潮文庫に収録された」(文庫版あとがき)。すなわち大久保訳『ロリータ』は三種類あって「初版と新潮文庫版とでは、同一訳者の手になるものとはほとんど思えないほど異なっている」(同)わけであるが、管見のおよぶ範囲でそれに若干の補足をしておこう。
 最初の翻訳に対する批判がいつ誰によって行なわれたのかは知らないが、『ロリータ』の翻訳はひどいという風説は八〇年の新潮文庫版が出たのちでも囁かれていて、私も直接耳にしたことがある。書かれたものでは、たしか七〇年だったかに雑誌「ユリイカ」がナボコフ特集を組み、そのなかの誰かとの対談で丸谷才一が悪訳であると指摘していた記憶がある(この雑誌は探せばうちのどこか堆積層に埋もれているはずだが、すでに化石と化しているかもしれない)。
 誤訳があるとはいえ、訳者である大久保康雄がこれをポルノ小説のたぐいと見なしていたわけではない。この二巻本の訳者あとがきを読めばそれは明らかで、大久保はオリンピア・プレス版が発行された年の暮に手に入れて熱心に読んだという。ただ、この巧緻きわまりない小説を翻訳するにはそれに要する期間があまりにも短すぎたのだろう。アメリカで出版されてすぐに版権を取り、大久保がおそらく取りかかっていた仕事をいったん中断して『ロリータ』の翻訳にかかったとしても、およそ三か月で仕上げなければならない勘定になる。いかにオリンピア・プレス版を読んでいたとしても、これではあまりに短すぎる。それを証するかのように、この二巻本初版の上巻には一枚の正誤表が挟まっていて、そこには「印刷進行の都合上」訂正できなかった個所が示されている。

 「ぞっとするような家」(誤)→「貧相な家」(正)
 「青銅色のリスをなでて」(誤)→「青銅色がかった茶色の束髪に手をやって軽く叩き」(正)
 「画室のような部屋」(誤)→「書斎みたいな部屋」(正)

 二番目の誤りなどなぜそうなるのかよくわからないが、「誤訳」のたぐいはこの三か所にはとどまるまい。単純な誤訳だけでなく遺漏も少なくなく、改訳版と比べると若島正のいうように「同一訳者の手になるものとはほとんど思えないほど異なっている」。改訳決定版を謳って刊行されたのが七四年、これはコンラッドの『密偵』(井内雄四郎訳)、ゴンブロヴィッチの『ポルノグラフィア』(工藤幸雄訳)などとともに<エトランジェの文学>(全八巻)シリーズの一冊に収められた。だが、実はその前にもう二つのエディションがあって、一つは六二年、河出ペーパーバックスとして刊行された並製ビニールカバーの版、さらに六七年にシリーズ<人間の文学>の第二十八巻としてハードカバーで刊行されている。これは、クレランド『ファニー・ヒル』(吉田健一訳)、バロウズ裸のランチ』(鮎川信夫訳)、サド『美徳の不幸』(澁澤龍彦訳)などを含むシリーズで、いずれもオリンピア・プレスの刊行書目を翻訳したものであるけれども、この二つのエディションでは翻訳文に異同はなかったのだろう(確かめてはいないが)。ちなみに、ラッセル・トレイナーの『ロリータ・コンプレックス』(飯田隆昭訳)が太陽社から刊行されたのが六九年、この本によってロリコンという言葉が広まりやがて定着するにいたる。


   2

 そういうわけで、「『ロリータ』の翻訳はひどい」という風評は長いあいだ囁かれていたけれども、改訳版、さらにそれに手を加えた旧新潮文庫版に関しては実際はそれほどひどいというわけではなく、そのあたりの事情を若島正は単行本のあとがきでこう記している(今回の文庫版では削除されている)。


 「今回、新訳を試みるにあたって、新潮文庫版をゆっくり読んでみたところ、細かいところまで正確な読みが行き届き、しかも日本語としてこなれた上質の翻訳であることを発見して驚いた(どうも初版本の評価を耳にしていたのが誤解のもとだったようだ)。教えられるところも沢山あったことをここに記しておきたい。」


この「日本語としてこなれた」というところが実は問題で、若島も「新潮文庫版にあえて難点を指摘するとすれば、それはあまりにもこなれすぎている点である」と述べているように、「ナボコフ独特の文章」がこなれすぎると、それはもはやナボコフではないということになる。ナボコフは先にふれた自著解説で次のように書いている。


 「オリンピア・プレスがパリで本書を出版してから、あるアメリカの批評家が、『ロリータ』は私とロマンチックな小説との情事の記録であると書いた。この「ロマンチックな小説」というところを「英語という言語」に置き換えれば、このエレガントな式はさらに正確になっただろう。」


 ナボコフのいう「英語という言語」との情事とは、一つにはナボコフ独特の比喩であり、一つには言葉遊びであるといえるだろう。大久保康雄の「こなれすぎ」た翻訳にはその二つがおおむね無視されてしまっている、と若島は具体例を挙げて述べるのだが(ここは文庫版あとがきでは削除されてしまっているので、ぜひ単行本版『ロリータ』でお読みいただきたい)、ナボコフ独特の比喩と言葉遊びについて、ここでは別の例を紹介しておこう。


   3

 『ロリータ』第二部第二十六章の冒頭、ハンバートとリタとの出会いの場面。


 「彼女を拾ったのは、退廃的な五月のある夕方のこと、モントリオールとニューヨークの間のどこか、あるいはもっと範囲を狭めれば、トイルズタウンとブレイクの間にある、<タイガーモス>と看板が出た、夜の森に黒々と燃えている酒場で、彼女はすてきな酔い方をしていた。彼女は私たちが同じ学校の出だと言い張り、震えている小さな手を私の猿みたいな前肢に重ねた。」(若島、単行本/新潮文庫


 ブレイクは英国の詩人ウィリアム・ブレイクのもじりで、トイルズタウンToylestownはブレイクがこつこつと働いていた町ロンドンをtoil’s townに掛けた造語。酒場タイガーモスの名はブレイクの有名な詩「The Tyger(Tiger)」にちなんだもので、その一節、「虎よ!虎よ! ぬばたまの/夜の森に燦爛と燃え。/そもいかなる不死の手 はたは眼の/作りしや、汝がゆゆしき均斉を」は、ブレイクの詩集を読む以前にアルフレッド・ベスターの傑作SF『虎よ、虎よ!』で覚えたのであるけれども、若島正はこれがブレイクの詩のアリュージョンであることがよくわかるように、a darkishly burning barに「夜の森に」を補って訳している。ちなみにタイガーモスTigermothは、蛾の一種ヒトリガtiger mothのことで、鱗翅類に詳しいナボコフらしい命名である。
 文末の「猿みたいな前肢」は、ふつうは猿のような手とか猿のように毛深い手といったふうに訳すのだろうが(大久保康雄も「猿のような手」と訳している)、原文はape pawであって、直訳すれば猿肢といったところか。息子のドミトリ・ナボコフは『ナボコフ書簡集』*2の序文でこの箇所にふれて、ナボコフは「下書きのときには「猿のような」apelike、あるいは「猿の」simianという言葉さえ考えていたかもしれ」ないが、「しかし彼は、よりシンプルで、直截で、鮮明な言葉の方を選んだ」と書いている。そして最初は「猿の肢」としていたが、校正の最終段階で「猿の」を「猿」に変更したのだという。
 ウィリアム・ブレイクのもじりに関しては、別にわからなくてもこの小説を味わうのに不都合はないかもしれない。ブレイクを思い浮かべてにやりとする読者をスノッブであるというならそれでもいいが、作者が心魂を傾けて遊んでいるものを漫然と読み流すのはいかにも勿体ないといわねばならない。一語一語を吟味しながら読むのが面倒だというなら、ナボコフなど打ち遣って「凡庸な作家たちがこわばった指でタイプして、三文書評家たちが「力強い」とか「鮮烈」だとか絶賛する、あの絶望的に陳腐で長大な小説に出てくる、壁画同然の言葉の羅列に、刺激を受け」(ナボコフ、『ロリータ』自著解説)ていればいいだけのことだ。
 ナボコフの友人である批評家エドマンド・ウイルソンから「ナボコフは稀で見慣れない言葉を使いたがる癖がある」と批判されたとき、ナボコフはこう反論したという。「私は稀で見慣れないことを伝えようとしている」(単行本訳者あとがき)。
 猿肢の男――ナボコフはこの一語に最後の最後まで拘ったのだが、そこにハンバート・ハンバートという「奇怪な人物のグロテスクさと悲哀」*3が凝縮して現れているのである。


ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

*1:大江健三郎が帯に推薦文を寄せている。この翻訳書が刊行された一か月後に大江は大学を卒業するのだが、ナボコフにふれたあるエッセイで次のように書いている。「まだ学生だったはずだが、『ロリータ』の翻訳を読んだことは確かなのに、むしろそれが災厄をなして、私はナボコフを軽視してきた。(中略)『ロリータ』にしても――その翻訳の新潮文庫がなお生きている以上、ここで そうしたことを書くのは礼を失しているが、続々現れている優秀なナボコフ研究の若手によって訳し直されることを望む――私はアルフレッド・アッペル・ジュニアの 註釈付きテキストを手に入れて、初めて心から楽しむことができた。」( 「難関突破」、「新潮」二〇〇四年六月号)

*2:ナボコフ書簡集 1』江田孝臣訳、みすず書房、二〇〇〇年

*3:同上