時のきざはし、あるいは棒の如きもの


   1

 川崎長太郎の条でふれた平出隆の「遊歩のグラフィスム」、今回は「日記的瞬間」と題して森鴎外の日記と河原温の美術作品とを接続し、それを詩の問題に引きつけて考察して読みごたえがある(「図書」十月号)。
 日記は私的な断章であるがゆえに統一的な脈絡を欠いている。読み手は日付に区切られた断章の「小さな明滅」に立ち会った後、「時間の無辺の淵」に投げ出されるほかはない。詩歌では俳句がこうした「時の仕切りに際して無辺の相を捉えることが多い」として、平出は鬼貫の「流れての底さへ匂ふ年の夜ぞ」と虚子の「去年今年一時か半か一つ打つ」を引例する。いずれも新年に際しての句である。「瞬間の芸術は、過去に取り巻かれる」と平出は書く。


 「『いま』とはむしろ、見失われ、過去の事象を吸い寄せるブラックホールである。時間は過去から未来へと直線的に流れるのではなくて、流れの底や時計の一打音として、いわば凝(こご)ってあらわれる。」


 平出は「日は階段なり」という。いずれも同じリズムで蜿蜒とつづく規則性と「へたをすると段鼻にあしうらを滑らせ、蹴込に爪先を突っ込みかねない」危うさのゆえにである。だから虚子の高名な句、「去年今年貫く棒の如きもの」は面白くないという。


 「これは手摺りの句ではないか。ここにつかまっていれば安心、というところの句ではないか。その安心はたしかに、なまなかな安心ではないらしいとしても、私にはそれが少しも面白くない。これでは、日々の階段の危うさがどこにも見当らないのである。」


 ここには「『一年』はあっても、『一日』はない。新年という特権的な名前をもつ時間に対して、『貫く棒』が働きかけすぎているからである」と平出はいう。だが、はたしてそうか。



   2

 平出は句歌集と詩集とのちがいを、こうした時間とのかかわりの相で見る。句集や歌集は「客観的な(と見える)時間軸をうちにふくんでいて、この時間軸との連係が、一書の編纂にとって大前提」となっているが、詩集は「循環的な時間とその日付、すなわち季節のめぐりや歳月のめぐりとのあいだに、暗黙の契約を交わしてはいない」という。
 たしかに句歌集の場合、一書を編むときにあるテーマに添って編集を行なうこともあるけれども、多くは時間軸に添って編集される。それは、俳句や短歌がひとりの表現者のいわば「生理」と分ち難い表現方法である、ということとも関係していよう。そしてまたそれらが季節や歳月のめぐりに敏感な詩型であることにもよろう。
 漢詩にまで遡らなくとも、近代詩までは詩もまた季節や歳月を詠ったけれども、現代詩がいわば自然を詠うことに禁欲的であるように見えるのはなぜか。おそらく新体詩から出発した近代詩が定型からアモルファスな詩型へと脱皮してゆく過程で「花鳥風月」と訣れ、「荒地」派を中心とする現代詩人によって「思想」を盛る新たな器へと錬成されていったことにその一因はあろう。近代詩から「遠くまで行く」ことがめざされた現代詩にあって、季節や歳月を詠歎することはある意味で後退でなければならなかった。それはまた「短歌的叙情」の否定とも相渉るのだけれども、それはいずれ稿をあらためることとし深入りはしまい。
 ここでは、平出が「詩歌と日記との関係に心を奪われはじめた理由のひとつは、俳句や短歌がしばしば日記的瞬間とともに生れる、その姿を読んできたからである」と書く、その短歌と日記とのかかわりに、子規と詞書について書いた条で若干ふれたことを想起したと附記しておきたい。そこでは取り上げなかったけれども、たとえば河野裕子の『歌集 日付のある歌』などは、一日一首(もしくは数首)の歌が日付と天候、および詞書とともに詠われている。こうした歌集はそう多くはないけれども、短歌という表現方法の本質にむしろ寄り添っているというべきかもしれない。ここでは時間軸との黙契が黙契でなく正面切って主張されているのである。


   3

 平出は河原温の「日付絵画」、あるいは「I MET」――年月日の文字、あるいは会った人の名前だけが蜿蜒と連ねられたコンセプチュアル・アート――を論じた後、ベルリンで行なった講演で話した鴎外論の、なかんずく最晩年の日記「委蛇録」を引用してこう記す。


 「二日。水。陰雨。参館。大矢透至。」
 「三日。木。陰雨。参寮。中川忠順至。」
 「四日。金。雨。参館。餞平野久保乎鵠巣。」
 こういう記述が死の直前まで、およそ四年半つづく。まるで河原温の「日付絵画」、または「I MET」ではないか。


 石川淳はこの鴎外の日記を「詩人晩年の深夜の祈祷であつた」と述べたが、これはむしろ「詩であった」というに近い、と平出はいう。河原温の「日付絵画」が、「言語としての河原温の絵画」が、「認識すべき客体としての時間の階段となりおおせた言語であり、語るものの自己同一性を危機にさらす、日記的瞬間の言語である」ように、鴎外のこの日記もまた「時間の階段となりおおせた言語」であるという意味において鬼貫や虚子の俳句と同じ詩的表現である、と平出はいいたいのだろう。
 その論旨を肯うに吝かでないけれども、ここで冒頭の「貫く棒の如きもの」に立ち戻ってみるならば、はたしてそれは平出のいうように「手摺りの句」というようなものだろうか。
 ベルリンの講演において、「少壮のドイツ人の学者」が、鴎外のくだんの日記を「詩と呼ぶのは無理」であり「あくまで比喩ではないか」と疑義を呈したという。河原温の日付や人名の膨大な連なりがアートであり、鴎外の漢字のみの行文の膨大な連なりが詩であるというのは、私にいわせればそれらがなにものにも替えがたい表象不能な強度をもっているからにほかならない。虚子の「棒の如きもの」もまた棒の如きものであってむろん棒そのものではなく、況んや「手摺り」などではあるまい。去年今年という抽象的空間を貫く名づけようのない物質的強度そのものを「棒の如きもの」と称したのであって、それはまた、村木道彦が


 めをほそめみるものすべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子


と詠った「緋色の椅子」にも通じるイマジネール、G.バシュラールのいう物質的想像力の所産であるように私には思われるのである。