人衆ければ即ち狼を食らう・補遺


 さて、前々回「人衆ければ即ち狼を食らう――森鴎外久保忠夫」(id:qfwfq:20091108)の末尾に、わたしは《仙台のバスではいまも「ヤギヤマイレグチ」と言ったり、デパートではいまも「缶入れですね」とか「十箇入れ」ですね、と言っているのだろうか。こんど久保先生にお尋ねしてみようと思う》と書いた。折りあって先生にお尋ねしたところ、最近は外出することも間遠になりデパートにはとんと無沙汰をしている、バスの運転手の誰もが「イレグチ」などとアナウンスしているのではあるまいが、との由であった。むろん、これは「iはeに変化しやすい」ということの卑近な一例にすぎぬのであって、仙台のバスやデパートの従業員の言葉づかいが現在どうあれ、草いきり→草いきれの変化に関する仮説は有効性を失しない。
 そのことよりも、馬場孤蝶が「更に衰へざりし鴎外大人」で書いていた東京日日新聞の国詩募集に関して、貴重な御教示を賜ったのでここに記しておきたい。附言すれば、久保先生はかつて「短歌」昭和五十七年三月号に<「国詩」募集のこと>と題した論文を御執筆された由である。
 「国詩」募集は大正七年一月一日に開始、三十一日に締切った。審査委員は与謝野晶子高浜虚子斎藤茂吉北原白秋島崎藤村、顧問に森鴎外、幹事に馬場孤蝶

 《審査委員はオールスターゲームのような錚々たる面々ですね。鴎外の発言にたいして孤蝶が口を挟んだのも、幹事という立場上のものであったかもしれない。茂吉ならけっして鴎外に異を唱えなかったろう。何で読んだか失念したので出典を明示できないけれども、鴎外が「到頭」(旧仮名遣いでは「たうとう」)を「とうとう」と書いているのを見つけた茂吉の門人が、師に鴎外の書記法について質したところ、茂吉は鴎外先生がそう書いていられるならそれが正しいと答えた、ということである。》(以上、《 》内はわたしの余計な註釈である。為念。)

 「国詩」、第一席当選の深尾贇之丞の詩「壁に画きて」が、鴎外が疑義を呈したくだんの詩である。深尾贇之丞は須磨子の夫。「壁に画きて」は大正七年四月十五日附けの「東京日日新聞」に掲載された。その一節に「おゝ、おまへたち、おれはそれをあきらめよう、/おれは、おまへ達の親友であることを誇るより仕方がない。」とある。たしかに孤蝶のいうように「より仕方がない」のままに印刷に附されたのである。


 久保先生の御教示により深尾贇之丞の詩ということが判明したので、少し調べてみた。といっても何事につけ安直なわたしのこと、ネットで検索してみると、ウェブサイト<四季・コギト・詩集ホームページ>(主宰:中嶋康博・岐阜女子大学図書館)の「明治・大正・昭和初期 詩集目録」の深尾須磨子の項に、深尾贇之丞遺稿詩集『天の鍵』が書影とともに全文掲載されているのを発見。以下はこのサイトの記事・資料を元に記す。主宰者に記して深謝する。
 深尾贇之丞は、ヒロノスケ、ヒロノジョウ、ウタノジョウ等、読み方に定説はない。自筆の履歴書ではウタノジョウ、「新潮日本文学辞典」はヒロノスケで、国立国会図書館はこれを採用したと述べている。須磨子もヒロノスケと呼んでいたらしい。また、贇之丞の「丞」の字は、詩集では「亟の下に火部(灬)」となっている。詳しくは、同サイトの「名前の読みと漢字について」を参照。
 詩集『天の鍵』は大正十年、須磨子の編纂によりアルスより上木された。山本鼎の装丁。「壁に画きて」は詩集巻頭の第一篇。本詩集は全二十七篇の贇之丞の詩と、附録に須磨子の短詩五十四篇、長詩「思ひ出」、随筆「最後の旅」によって構成されている。ほかに鴎外の序、贇之丞の自序、須磨子の「天の鍵を世に出すに就いて」、与謝野晶子の跋文。
 「天の鍵を世に出すに就いて」によれば、贇之丞は「東京日日新聞」に入選の後、川路柳虹の「現代詩歌」に詩を発表した。『天の鍵』はそれらの詩や、他に発表した詩、未発表の詩から須磨子が選んだもので、この詩集には含まれないが原石鼎のもとで句作にも励んだようだ。贇之丞は大正九年八月二十四日、急性肺炎で長逝。
 晶子の跋に「ここに深尾夫人が手づから愛人の遺篇を整理して、その鍾愛の花であつた「さくら草」の雅名「天の鍵」を標題につけて出版されることは深尾氏を伝ふるために何よりも貴い記念であると思ひます」とある。遺稿詩集に須磨子の詩を附すように進言したのは晶子である由。
 さて、鴎外の序がなかなか含みのある文で面白い。書き出しにこうある。
 「天のかぎを読めば、わたくしには病後に白粥を啜つてゐるものがコニヤツクやヰスキイに脣を潤すやうな気がする。識らぬ味ではない。しかしわたくしは老いてこれを飲みほす力を失つた。啻(ただ)に飲みほされぬのみではない。動(やや)もすれば些のアンチパチイさへ起つて来ようとする。これは作者の恥ではない。却てその誉だと云つても好いかもしれない。」
 アンチパチイ即ち、antipathy嫌悪反感を催すと鴎外は言うのである。この嫌悪反感は感情によるものでなく理性によるものだと鴎外は言う。要するに、病後にコニャックでもないだろうというのが我が思慮分別であるけれども、詩は「理性を以て読み、思慮分別を以て論ずべきものではない」。したがって自分にアンチパチイを起させた作者の力は尊重に値する。なんともアクロバチックな頌詞だが、これが鴎外の序にいわんとするところである。贇之丞はこの序を戴いて草葉の陰でどう思ったろうか。
 むろんこの詩集のために書下ろされた序文ではないけれども、贇之丞は自序に「私は所謂トーンポエムを聞いてからポエムトーンを書きたくてたまらなかつた」という。要するに詩によって音楽を表したいというのが彼の主張であったらしく、川路柳虹の「現代詩歌」に拠ったことでも窺われるように大正期の口語自由詩の流れのなかにあった。鴎外が口語自由詩にアンチパチイを覚えるのは当然としても、請われれば筆をとることを厭わなかった鴎外の器の大きさを印象づける。ちなみに贇之丞の自序の結語は以下の通り。「私共は時の審判にまかせるよりしかたがない」。
 このあたり、背景となる大正詩壇の動きとともに考察すると別して興味深いと思われるが、いまはその余裕がない。他日を期したい。